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ダイビングとバイクをこよなく愛する53歳のおやじ。じっとすることが嫌いな性格はいつまでたっても変わらず。なんにでも興味を示す雑食派 人との繋がりが自分のすべてのエネルギーと信じる。日々出会い、日々学び 嫌いな言葉 マイペース 無責任

2015年11月29日日曜日

地域を動かす。

地方とは? 都会とは?

それぞれそこで営む地域産業の役割と覚悟とは?そして、その連携のあり方とは?

決して、国が施策を打つのではない。

大手企業では絶対に出来ない領域がある。

我々だから出来る。

我々しか出来ない。

そのプライドを我々は持たなければならない。

そしてそれを現実のものに出来るエネルギーのある人達が集まり、具現化していく。


地域にはその地域の文化がある。

そのために抱える問題もそれぞれ違う。

でもその根源にあるのは、共通だ。地域経済衰退、この根本を民間が本気で取り組まなければこの国はない。

お遊びごとではない。

その共通項の解決の糸口が、我々の仲間から発表された。

集ったメンバーは、凄いエネルギーをもらったことだろう。

イチゴは手法なんだ!

その奥にあるものこそ、我々がやらなければならな地域産業の形だ!

小野社長ありがとう。

胎内に集ったメンバーの皆さん、思いを一つに!本当にありがとう。

頑張ろう! やるぞ!CCA
少し涙しながら新幹線の中より


昨日のビデオ無いのかなぁ もう一回みたい。

いろんな経営者に見せたい。

2015年11月25日水曜日

自律 自立 自尊 自損 → 自存  ??

自立 自律(じりつ)  自尊 自損(じそん) 
ふっと思った同音異義語
自立 自損   自律 自尊  
対義語になりそうで全くならない・・・ なんか次のテーマができたような気がする!!!
根本は自存か?

2015年11月23日月曜日

形から入ってダメならやめればいい

思ったことを形にするキッカケとしては最良の方法と思っている。

でも最近なんかしっくりこない。

決して、その方法が良くないわけではないのかだろうが、出てくる経過や結果に納得がいかない場合が多い。

納得がいく場合と行かない場合のギャップが激しすぎる。

その答えがなんか見えたような気がする。

自分が置かれているフィールドの違い、本音の有る無しでその差が出る。

フィールドの違いは本当に大きい。

上下の問題ではない。

学びの姿勢、学びのスタイル。それが合ってなければそのフィールドは自分には合っていない。

事なかれ主義は僕には無理なんだ。切磋琢磨、喜怒哀楽をぶつけるからこそ学びがある。
明日からまた楽しいフィールドが始まる。
喜怒哀楽、人間らしく本音で行こう!

決して忘れてはいけないもの

時代の流れとともに人間が生きやすいシステムやルールが作られる。

それは必要なことだろう。

しかし本当にそれでいいのか?

人間の本質を無視したシステム作りばかりしてるのではないか?

生きやすいシステム作りの裏側で人間の本質を見失っているような気がしてならない。

本来人間て何なのか? 

個の人間 集としての人間 の本質こそシステム作りにブレさせてはいけない最大のポリシーだと思う

それを無視すれば 沼地に城を築くようなものだ。

いずれ根本から崩れてしまう。

もう崩壊は始まっているのかも知れない

人の力こそが国の力 でも勘違いは地獄を見る

国を造っているのは誰ですか?

もし国民ですという答えを持つなら、国民は、何をしないといけないですか?

主体性が国民にあるなら、その国民は、しっかりと、国民としての意識と、知恵と行動が伴わなければないません。

法律的に国民だからと、個人の主張だけを繰り返していれば、それは、その本人も含めた、衰退にしかならないのです。

事故の主張の前に、本当にあなたはグローバルな考え方を持っていますか?

昔の人達はもっと持ってましたよね。自分の力量の範囲よりも少し上、もしくは広いところを見据えて行動していました。

果たして今の国民ははどうでしょうか?

あなたは自分主体ではないですか?

自分たちの考えは自ら問いただすこともなく正しいと考え、意に沿わないのは、他人のせいにしていませんか?

それがこの国のボトルネックだと僕は思います。

しっかりと自分を見つめ、世間を見つめ、死ぬ直前まで自分を見つめ直し、何が正しいかを導き出し、自分にはそぐわないから批判をするのではなく、正しいと思うことを自ら立ち上げる、そして行動を起こしていく。その一人一人の行動こそ、国民のあるべき姿ではないですか?井の中の蛙大海をいらず   貴方は世間を知って、ちゃんと考え方を持ち、自ら能動的に行動を起こしていますか?
自分の持論です。

義理がもたらすもの

人の繋がり 広がってますか?

自ら必要がないと切った相手以外で人は離れていってませんか?

今、直接のつきあいが無くても何かあったときその繋がりは生きていますか?

生きていると感じているのは自分だけではないですか?

相手が離れて行ってるとしたらなぜでしょうか?

その相手に不義理はしてませんか?

人の繋がりが大切なら、義理は大切です。

出来てない人が本当に多いと感じます。

人との繋がりから新しい出会いや冒険があったとき…元を作った相手にほんの一言 それが相手の心を豊かにします。
でもそれがなければ…離れていって当たり前ですよね。

この差は本当に大きいです。

ほんの少しの義理で人の繋がりは広がっていきます。

できていない人 出来てると思ってる人 残念でなりません。

2015年10月2日金曜日

伏見稲荷の石段を登りながら

一日遅れで伏見さんをお詣りしてきた。

数ヶ月前、石段を登りながらふと気付いたことがあった。

長い石段を登るとき、しんどさからどうしても足下を見てしまう。

そこを意識して階段の上の方を見ながら登ってみた。

なんと楽であろう!! たぶん体力的しんどさは一緒なんだろうが、精神的なもが全然違う。

足下に多少気を遣うが是非やってみて欲しい。


そしてふと気がついた。何事も一緒だ。

目標を定めてそれを見つめながら前に進むのと、目標は定めるが下を向いて進むのでは、結果に大きな違いが出る。

折角目標を定めているのに、足下ばかりを見て進んでいれば、今自分がどんな進捗にいるのかもよく解らない。

しっかりと最終目的地を見据えながら、一段一段上っていくことが大切である。



下りは?

しっかり足元を見つめて降りてください。

降りていくときに先を見据える必要はありません!!(笑)

2015年8月3日月曜日

善と悪

今朝の朝礼で、善悪について質問が来た。

その経緯はここでは書かないが、少しでも善いことをしましょうという投げかけに、善いこととはどういうことなのか?という質問は飛んだ。

人間は、善いことをしようとすると、少しでもより善いことをしようと考え、それが効果的なのかどうか考え、挙げ句の果てに悩んでしまい実行に移せない人が多い。

さて皆さん、善いこと「善」とは?の問に明確に答えることが出来ますか?


僕は、こう答えました。

そもそも、善という言葉は世の中には無かった。

何故なら今、善いと思われている行動は総て人間として当たり前の行動だったからである。

それはどういう基準からくるのか?

それは人間としての道徳に準じるものです。

ところが、その道徳から外れた行動をする輩が出てきた。

それは悪である。

道徳の枠の中は当たり前、そこからはみ出したのが悪である。

故に悪という言葉が先に生まれた。

そして悪に対する反意語として善ができたんだ。

だから善とは、道徳に準じるのも総てですよ。

だから、ふと気がついたこと、自分ためににではなく他人のためになるような些細なこと何でも善と捉えて良いんですよ。

だから悩むことではないですよ。


善=些細なことも含めて人としての当たり前の行動

悪=些細なことも含めて人として逸脱した行動

あくまでも私見です。

2015年7月23日木曜日

賛歌を口ずさみ英雄のごとく旅立て

死の恐怖に犯されない人生をおくれ

人の信仰を貶めるな

人の考えを尊重し自分の考えも尊重してもらえるよう求めよ

人生を愛し全うせよ

あらゆるモノを美しく彩れ

長くいきるようにつとめ大切な人に尽くせ

そしてそのときが来たら死の恐怖にとらわれるモノになるな

もっと時間が欲しい 違う人生をやり直したいと嘆くものになるな

賛歌を口ずさみ英雄の帰還するがごとく旅立て


とあるテロリストとの戦いを描いた映画のラストシーン

ストーリー上戦死したとある大尉の手紙である。


意志あるすべての人々へ

勇気あるところに常に希望は存在する

戦争だけが戦いではない



私たち経済人もま同じ戦士でなければらないと思う。戦う敵を間違うな!

出来る人間とは目的を明確にもって行動する人

人間がする行動には総て目的がある。

それを認識しているかどうかは別として必ず目的が存在する。


それを確認してからする行動と、認識せずにする行動の結果には大きな違いが出る。

それに気付けば良いが、気付かずに事を進めていくと、全く無意味な行動にしかならない。

仕事のように目的が明確なモノほど取り返しのつかないことになってしまう。


ほんの数秒で良い。

なぜそれをするのか自問自答するだけで、明確な答えを導き出すことが出来る。



自分が任されている仕事は何が目的なのか? 


自分が今から参加する会議は何を目的としているのか?

自分がこれから会う人間は何を目的として自分に合うのか?


意識を持ってやってみて!!

これをするだけで劇的に出来る人間になりますよ。


2015年6月22日月曜日

新しいものとのつきあい方・・・大親分が教えてくれたこと

6月19日、福岡の地で三方よしの公共事業推進カンファレンス in 福岡が開催された。

すべてにおいて素晴らしいカンファレンスであった。

建設業の存在意義。地域において目指さなければならないもの。

いろんな意味で、自分が経営理念に掲げ目指してきたものが明確に間違っていなかったことを確信できる時間であった。


そんな中で、一つの発表か自分に衝撃を与えた。

高知県磯部組 宮内保人氏が、発表された内容である。

建設業における3Dの活用についてである。

今建設業は、大手を中心に、BIMやCIMといったような、3Dを活用した施工が次の時代の施工技術に進もうとしている。

BIMやCIMの詳しい説明は、Googleさんに聴いてみてほしい。

我々も、いち早く取り組もうと躍起になっているところだ。

3D技術を施工に使う・・・・・・先ずはソフトの導入・・・そしてそのソフトを使いこなす・・・・・・・コレが普通の手順である。

そしてそのハードルが高いために踏み込むことが出来ない。



しかし、今回の発表は、3Dとはなんぞや?

モノの本質は何処にあるのか?



それをしっかりと解った上でその機能を取り入れているのか?ということを明確に教えてくれた。


人間はどうしても、機能や性能に目が向いてしまう。

自分にとってどうかというところに着目しすぎているからである。

いらぬ観念がそれを覆い包み、機能や性能、そこからくる結果が自分にとってどうかとしか見えていない。

それは決して間違いではないのだが、常に相手目線に立つことを主眼に置いて仕事する立場になれば、3Dのような先端技術はもっと大きな可能性を引き出せる。

謳われている機能は性能だけでは無く、モノの本質が解れば、その使い道は無限に広がるし、その導入にも明確な違った目的も見えてくる。

我々地位建設業において、素人である住民が顧客である以上、あらゆる技術を使いわかりやすく理解を得ることこそ必要なことである。


理解に苦しむ人に絵を描いて説明をする。そうすれば理解しやすくなる。

今までもやってきたことである。

そもそも3Dの原点はそこに集約される。

それが、パソコンに替わっただけなのだ。

BIMやCIMはその延長線上にあるモノである。


自分たちが得る機能や性能は二の次で、当たり前に付いてくる副産物と考えても過言ではない


ありがとう。大親分 これぞ原点回帰ですね








2015年5月16日土曜日

何から守るのか?

家族を守るためには、それを取り巻く環境を知らなければならない。

家族を守るのに家族しか知らないのは、結局エゴでしかない。

守るという行為は、どういうことなのか?

何から守るのか?

語れる人いますか?

ほとんど人語れますよね。

でもその意識が弱い,もしくは、間違っているのが現代人ですよね。

強く持ってるという人も、その敵を間違えていませんか?

会社の同僚は敵ではないですよ。

あなたは誰と戦っていますか?

自分の一生ってどういうことですか?


夢を見れない日本人たちへ

夢を見れないのは誰の責任でもなくあなたの責任です。



2015年5月13日水曜日

中立という使い勝手のいい言葉

マスコミ、メディア関係者の多くがよく使う中立という言葉。

本来は、決して、批判される言葉ではないが、今の時代、中立という言葉を使う人間に真剣さを感じることはない。

というより、中立を口にする人間善人に無責任さを感じてしまう。


マスコミにおいては中立という言葉を巧みに使った洗脳、誘導。客観的に誰が見ても中立せない報道だらけの中で、よくもやすやすと中立を口にするなぁと呆れてしまう。

本当にその言葉を使いたいなら、もっとしっかり勉強をしなさいよ。

本来、メディア関係者は、他の人の何十倍もの知識と経験を持ったものだけがその知識を使い客観的に中立の立場を判断しなければならない。そんな人達だけがメディア、マスコミというフィールドで活躍することが許されるべきだが、今も関係者は、他の社会人よりも知識が乏しく判断できない連中たちが、例外なく総てである。

間違いなく例外は居ない。にもかかわらず堂々どうそのフィールドで活躍している。

その責任の重みを知ってる人は一人もいない。
多数派や、国民目線が中立ではない。大きく勘違いしている輩が本当に多すぎる。

反論したい人はどうぞ!

そして、それを知らずに、洗脳されている人達もまた然り。どちらかに偏れば、意見や批判を買う。だから中立・・・・これ正しいですか?

確かに中立という選択もある。であるならば、中立である理由をしっかりともたなければならない。

無党派層といっていれば誰からも批判されないと思っている人達と全く一緒である。

しっかりと主張を持ってる人間からすればちゃんちゃらおかしい。最大のお笑い種だ。

主義主張をしっかり持ち議論ができて初めて人間だ。

もし主張をしたいなら、一切、中立という立場は使って欲しくない。



2015年4月19日日曜日

リスク回避の手助けの仕方 仕方によっては・・・・

その人のフィールドに行って引き上げてあげるのが手助けでは無い。

その人がこっちのフィールドに来て戻らないように助言するのが手助けなんだ。

迎えに行けば、それはその人のリスクにならない。 

その人にリスクを負わせないのは、その人の成長には全く繋がらない。

違うフィールドに行くリスクはその本人しか負えない。

それがわかったものだけが成長という成果を得られる。


2015年4月16日木曜日

客観と主観、そして常識との関係

今日、とある人と客観と主観のお話をした。

主観は、説明するまでもないことだと思う。
客観は?何をベースに客観なんだろうか?

悩んでいる人は非常に多いと思う。

そして非常に多くの方が間違えている。

客観視するとは常識と比べる・・・もしくは常識から判断すると・・・
と思っている。

そもそも、常識とは?何を持って常識というのか?

実は、常識の定義などない と思っている

常識とは、個人が常識と思っているにすぎないのだ。

もしくはそう思って居いる人が多数を占めるという定義にしかならない。

常識とは人間が勝手に定義したものに過ぎない。

ということは、常識すらも主観と言える。


では客観とは、何を持って客観というのか?

この定義は、非常に難しい。

僕なりの答えは持っている。

それには、数多くの経験が必要だ。

それも、限られた枠の中だけでは無く、あらゆるフィールドにおける経験だ。

そこからしか個人の客観的見方とは出てこないのかもしれない。

あえて言うなら、道徳的観点から見たこと  というのが僕の見解 

あっ、辞書にはちゃんと書かれてますよ

それぞれの考え方でね


2015年4月3日金曜日

教育勅語 戦後の大学教育ってなんだったんだ?


そもそも大学は、なんのために作られたのか? 

その本来の目的とは大きくかけ離れた施策が打たれだしたのが、戦後である。

起こるべくして起こった学生運動がその事実を物語っている。

そしてそれは今薄れつつあるがまだその思想は、根深く残っている。

日本を骨抜きにするために、打ち出した施策が、子供から洗脳するという、壮絶な計画だった。

だから先ず大学を補抜きにした。そしてそこから巣立った教師たちが、子供を骨抜きにするという大胆かつ徹底した施策

そしてその計画は、見事に成功し、日本は骨抜きにされてしまった。

そこにつけいったのが隣国だ。

漁夫の利が得意な隣国は、恥ずかしさも忘れ、恨みはすれども感謝せず。

日本が骨抜きにされた同じ施策を持って、国民を洗脳し、それを事実としようとしている。


こうなったそもそもの張本人は、○○○○なんだよね。

しかし今、その国は一番日本を必要としている。失策であったことも認めている。

もう一度大切な日本と取り戻すためにも、大学を含めた教育改革は必須だね。

やっぱり全ては教育から

教育勅語 
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此
レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ
兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ
修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開
キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無
窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス
又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所
之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々
服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治二十三年十月三十日
  御名御璽

12の徳目

  1. 父母ニ孝ニ (親に孝養を尽くしましょう)
  2. 兄弟ニ友ニ (兄弟・姉妹は仲良くしましょう)
  3. 夫婦相和シ (夫婦は互いに分を守り仲睦まじくしましょう)
  4. 朋友相信シ (友だちはお互いに信じ合いましょう)
  5. 恭儉己レヲ持シ (自分の言動を慎みましょう)
  6. 博愛衆ニ及ホシ (広く全ての人に慈愛の手を差し伸べましょう)
  7. 學ヲ修メ業ヲ習ヒ (勉学に励み職業を身につけましょう)
  8. 以テ智能ヲ啓發シ (知識を養い才能を伸ばしましょう)
  9. 德器ヲ成就シ (人格の向上に努めましょう)
  10. 進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ (広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう)
  11. 常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ (法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう)
  12. 一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ (国に危機があったなら自発的に国のため力を尽くし、それにより永遠の皇国を支えましょう)


2015年3月21日土曜日

道を知っていることと歩くことは違う

未来の道が自分をここに導いたのではない

歩んできた道が自分をここに導いたのだ

決断することは大事なのだ

でも、決断した後になぜ決断したのかという理由を知ることはもっと大事である。

変わらないものを信じるものだけが変えることができる。

変わらないものを信じることができないものに本当の変化をを作り出すことはできない。


そりゃそうだ。

2015年3月1日日曜日

ありがとう

感謝を伝える言葉である。

あなたはありがとうという言葉を、1日に何回ぐらい言っていますか?

では、あなたは、1日何回くらいありがとうと言って貰っていますか?

一回、意識してみてください。

ありがとうを言って貰うって、ものすごく大変なことなんだ。

ありがとうを言って貰うことが目的ではないが、本当に感謝して貰い、なおかつそれを口に出して貰うというのは並大抵のことではない。

だからこそ、ありがとうという言葉を大切にしたいものだ。

だからこそ、気持ちを素直に、相手に伝えたいものだ。

2015年2月26日木曜日

使うところを間違えれば・・・

客観的分析 主観的解釈

どちらも非常に大切であるが、使う場所を間違えればそれは即致命傷となる。

なぜその判断が出来ないのだろう。

人間の甘えや目先の優しさという隙間がそうさせるのだろうか?

結果としてそれは優しさでも何でも無く関わる全員を貶めることになるのになぜ気づかない?

結局目指す目標が見えてないか、理解できてないのかなぁ。

悩んでしまう。

春が近いなぁ

2015年2月22日日曜日

戦うべき相手は誰なのか?

戦争のことを言っているのではない。

あなたは常に、戦い無くして生きていると思っていますか?

今日、大企業病という書き込みをフェイスブックで見つけシェアをした。

大企業病は自体を書くつもりはない。大企業病がなぜ起こるのか?

を少し考察してみたい。

理由は、多岐にわたるのだろうが、結論を先に言うと、自分の人生の目標をちゃんと設定できていないのが要因でないかと考える。

もしそれを、しっかりと設定できていたとしても、勘違いして設定いる人は多い。

社会人として、組織の一員として働くのであれば、その会社の掲げている目標が、自分の目標、もしくはその目標を達成した先で自分の目標にならなければならない。

大いなる個人目標は、今目の前の目標の達成の先にしか存在しないはずである。

個人の目標
  ↑
組織の目標
 ↑
自分の行動

とならなければならないはずである。

そうすることで、組織の目指す目標に対して、しっかり行動が起こすことが出来、一人の力が企業成長に大いにつがっていく。

その成功が自分の成功につながる。

ところがである。

この簡単であるが重要なロジックを理解せずに

会社の目標 
個人の目標
個人の行動

もしくは

会社の目標 個人の目標
   ↑    ↑
   自分の行動

となっていることが多い

会社が掲げる目標は、各社いろんな事を掲げられているが、ほとんどが行き着くところ企業の成長と社員の安定生活であるがそれを汲まずに自分で別の目標を掲げてしまう。

特に下の図は、状況により 組織か個人かで使い分けている。これでは目標がないのと一緒である。

上記のようなことが起これば、組織を構成する個人はどうなるか?

目標を安直に個人に向けるわけであるから、その時点で競う相手が変わってしまう。

本来ライバル企業や消費マーケットにいい意味で戦いを挑まなければならないのに、設定する個人目標に組織目標が組み入れられてないため、目標達成のために戦いを挑む相手が、組織を同じくする同僚の人間となってしまうのだ。

これでは企業競争力も何もあったもんじゃない。

とあるコンサルティングの知人からも同じ事を聞いた。

全く関連の無い部署で、調査したら驚くことに、全く同じ結果が出たというのだ。

家庭の安定を目的とする人が多い(これは個人目標。これでかまわない)

その目的達成のために、企業目標をしっかり把握し、その業務の結果から役職を勝ち取り、結果として、家庭の安定になる。(これが本来)

ところが、個人目標を直接求めるため、同僚などが敵になり、本来の企業目標を考えずに、他人との比較で行動を起こしてしまう。(これでは本末転倒)

全く同じ事である。

大企業に入ったという満足感が、次の目標設定を大きく狂わし、安定した生活を目先の目標に設定してしまえば、自ずと大企業病になってしまう。








2015年2月16日月曜日

継続的頑張るは最高の楽しみ

頑張るということの継続は何よりもつらいことだ。

でもそれ以上に楽しいことなんだ。

楽しみを感じだしたと同時に、それを否定する感覚も生まれてくる。そしてそれは楽しさを感じている間、永遠に消える事は無い。

それを乗り越え克服して、初めて楽しみなのだ。

楽しみを感じていないのなら、まだそれは頑張り切れていない証拠

何かが抜けている。もしくはもう少し精神的に強くなれば・・・・!!

自分の行動や思考を見直してみよう

2015年2月10日火曜日

一番を目指すには

「一番になる」

どこかの誰かが、二番ではだめなんですか?と馬鹿げた発言をした人がいたが、上を目指す以上、常に一番を目指すことは当たり前である。

一番を目指す以上はそれを明確な目的に掲げる必要があるが、良く勘違いをしている人がいる。

自分が住む奈良県で、奈良県で業界の一番を目指すとしよう。

あなたはその時、具体的にどのような行動に出ますか?

とうぜん、そのエリアの分析やエリア内業界他社の動向なんかを主終始見極めようとするでしょう。
それは決して間違ったことではありません。

しかし、エリアで一番を目指しいるのであれば、その言葉通り、本当にそのエリアの分析をすればそれで良いのでしょうか?

決してそうではない。そのエリアの一番を目指すなら、もっと大きなエリアを視野に入れなければ結果的にそのエリアの一番に成ることは出来ません。

僕はよく、他の経営者達とのお話の中で、「奈良で一番を目指すなら全国で150番を目指しなさい」といいます。

市町村で一番なら、都道府県一番を!

都道府県で一番なら、各地地方一番を!

地方で一番なら、全国一番を!

全国一番ならアジア一番を!

というように・・・

常に具体的に目指す目標のその上を目指し、目的達成を通過点とする考え方で取り組まなければ、本来の目標達成はほぼあり得ない。

何故なら、具体的目標達成には、必ず、それよりも上の要求や、情報が必要となってくるからだ。

奈良の一番を目指すのに奈良の情報だけで勝負してても一番になれるはずが無いでしょ

全国に目を向けるからこそ、その地域の一番になれるんだ!!

そうすれば目標達成の後の目標も素直に見えるし即行動に移れるんだ



目標は目標以上により高く!!







賛成をいう勇気

自分の考えは必ず露わにしなければならないと常日頃から思っている。

それは、同調の意見の時もあれば、反論の時もあり、また見方を変えて新しい提案もある。

大切なのは、いなかる時も自分の意見として、主張することが大切で、頭の中で思っていても表現しなければ、相手にとっては意見がないと一緒になってしまうということだ。


ただ、少数のグループディスカッションなどては主張することが多いかも知れないが、政治や経済論などの公共性の高いものになればそれは少し変わってくる。

主流派に賛成であれば、あえて賛成を声に出さなくなってしまう。
逆に反対であれば、相手の意見をしっかりと聞き入れる前から必要以上に反対を訴える。

というように、賛否により声のトーンが一気に変わってしまうのだ。

どうせ、自分が思うようになるならあえて声を出して目立つ必要は無いだろうという考え・・・・もしかしたらそれは、昔からある日本の美学なのかもしれない。

しかしよく考えてみよう。

今、自分の意見をなかなか持たず、人の意見を聞いてから自分の意見を持とうとする人達が増えてきている中で、果たしてそれで良いのか?

声を出した数だけを見れば、反対派の方が多数を占めてしまう状況で、流される人達は、結局反対派に流れてしまうのが、一昔前であったように思う。

数年前、自民党政権から民主党政権に変わったとき、それが大きく動いた。

自民党支持者達は、当時、どうせ与党なんだからと、大きな声を上げなかった。しかし、主流が民主党に動いた瞬間から、自分たちは反対派と成り、声を大きく出すようになった。

お陰で、与党に戻った今も、自分の意志を出さなかった人達も、賛成という意思表示をするようになったのだ。

メディアやネットが大きな力を持ってきている現在、本当の民意を明確にするためにも、賛成であっても、堂々と声を出して自分の意思を表示することが、大切である。

それこそが自分たちの手で次世代を作り上げていくことに繋がると確信する。




2015年1月22日木曜日

バカな正義感

人間は、生まれた瞬間から、死ぬまで他人の世話になるもの。

身近な人間だけではなく、生きている限り社会という不特定多数の人達の世話になっているということをしっかりと認識しなければならない。

その中で自分はどういう貢献ができるか?

自分という人間は社会でどう役立つのか?

を考えなければならない。


社会の中の一員という認識がないまま、役立つことを考えればそれは独りよがりであり、エゴである。

それは他人にとって迷惑でしかない。

そんなことが今の日本で話題になってる。

今、こんなとが話題になること自体、社会の迷惑である。

バカも休み休みにしてほしい。

2015年1月21日水曜日

感性を磨く

いろんな感性がある。

他人から見て感性が磨けてる人って、その感性だけを磨いてる人では無いと思いませんか?

特化して一つの分野に感性が磨けてる人って、他のこともしっかり熟知してますよね。

だからこそ磨きたいものをどう磨けば光るのか知ってますよね。

一つの感性に集中して他に目を向けてない人って、凄いと思うけど輝きに深みがないというかなんかそんな感じがする。

ふとそんなことを気づかせてくれる今日この頃

何のこといってるかわかるかなぁ・・・・フフ


2015年1月13日火曜日

継続は創造より難なり

継続は力なり、という言葉は昔からある。

最近この言葉をはき違えていると感じることが良くある。

残していかなければならない過去からの古き良き文化や習慣、これはまさしく、繰り返し継続させることで、伝承してきた。

しかし、新しいものを作り上げそれを定着させようとするとき、それは単に継続だけで良いのだろうか?


各地で地方を活性化させようとする取り組みが、多く開催されている。

私が住む奈良でも毎年何か新しい取り組みがスタートする。

確かに、地域の人達の中に危機感から生まれる発想力、企画力は素晴らしいものだと感じる。

そして、その取り組み(イベント)を繰り返し継続しているのだから、それも素晴らしいことだと感じる。

しかし、本当に繰り返し継続させているだけで良いのだろうか?



継続はされているが、定着したものはほんの一握りしか無いのでは無いか?


一つ例に挙げるとすれば、今はやりのB級グルメである。

そもそもが、昔から地方文化の中に定着しているものは良いとして、その地域の特色を生かしたグルメを創造しようとしたとき、それば定着する確率は非常に少ない。


なぜなのか? 

原因はいろいろあるだろうが、その一つに、グルメ創造のイベントは毎年開催するものの、グルメ自体を定着させようとする地道な運動に力が入ってないのでは無いかと感じる。

イベントが定着を産むのでは無く、人の文化に入り込んで初めて定着となる。たしかに継続させることで定着に繋がることもあるだろうが、お祭り事はあくまでもお祭りであって、人の生活に入り込んでは来ない。

やはりそのための仕掛けは必要である。

ただやり続けるのでは無い。定着させるためにどのようにやり続けるかを考えて初めて継続である。


これは仕事においても同じ事である。

プロジェクトを仕掛けることは誰にでも出来る。(能力があれば・・・)

しかし、それを継続させ、定着させるためには、その為の仕掛けが必要なのだ。

プロジェクトは何を産むためのものなのか?

定着とはどういうことなのかを、紐解けばそれは自ずと答えが出る。

定着は、それに関わる人達が何を産み、それをどうしたいのか?しっかり意識を持つとことから始まる。

関わる人達が意識をもち継続させるという地道な内容に、しっかりとプロジェクトを組んだものが定着し成功に繋がるのだ。


これこそが「継続は力なり」と強く思う

継続は創造より遙かにハードルの高いものである。













2015年1月11日日曜日

経営の表裏のバランス

先般、お世話になってる先生とミーティングをしたとき、一般的経営論のお話になった。
僕も全く同じ考え方なので、書かせていただく。


経営の役割は人に公表する表側と、しなくてよい、もしくはしてはいけない裏側のふたつがあると言うことだ。

表側とは、世間様に公表するべきよい言葉を並べた方針である。

例えば、終身雇用、顧客第一 、品質向上、地域との協調最優先、国のために、地域のために、社員の幸福な家庭の構築 、上げだしたらキリが無いくらいそんな言葉が溢れている。

しかし、その裏側に経営者の最大の役割が隠れている。

それは会社の継続である。次の経営者に、確実に繋ぐと言うことこそが、経営者の根底に流れる最大の目的、役割であると言うことだ。

表向きの経営の役割だけを追求している経営者によくお会いするが、ほぼ、皆さん迷走している。

なぜなら、表裏と表現したくらい、相反するものだからである。

表向きの役割だけを追求すると必ず、問題が生じたときに行き詰まってしまう。

そこから亀裂すら生みかねない。


裏側だけを追求すれば、会社の存続は充分望めるが、世間的に認めてもらいにくい。これも実はリスクが発生する。

僕はあえて、表側、裏側の両方を口にしているが、別に口に出さずとも、裏側をしっかりと考え、表側の限度をしっかりと決めておかなければ経営は行き詰まってしまう。

バランスが大事なのだ。


誘惑の怖さ

誘惑は、日夜を問わず容赦なく人を襲う。

その人を試すかのように襲いかかる。

それは、飲食などの物理的誘惑もあれば、人の言葉や、自分の中に起こる甘えなど精神的誘惑もある。

状況によってはそれに乗っかっても良いだろう。

ただ本当に大事なのは、その誘惑によって、自分に与えられている、

もしくは自分に科せた仕事もしくは約束の遂行に狂いを生じさせることである。


それこそが本当の甘えだ!!

2015年1月2日金曜日

楽に楽しく

ふと、友人のFBを見て思い出した。

4年前 ひょんなことから息子が在籍していた高校の育友会長を引き受けた。

それまで6年間学校のある場所はだいたい知ってはいたが、初めて足を踏み入れた。

そんな人間が…と思われるかも知れないが、ひょんな事から白刃の矢がたち、「やってみなけりゃ解らない」の精神に乗っ取り、あっさりと引き受けた。

本部役員7名 学年の役員、委員全部で総勢103名だったと思う。

うち男が2名……

色んな組織に入り、いろんな役をさせていただいたが、この構成は初めてであった。

はじめての挨拶で登壇したときメンバーを見て大変なことになったと思った。

いろんな状況でこの場に座ってる人が居るだろう。

育友会を通じて学校に協力したい人、自分が楽しみたい人、嫌々ながら引き受けた人、くじ運が悪かった人等々 いろんな表情があった。

100名近い女性の顔にそれぞれの経緯がでていた。

特に嫌々でてくれた人ははっきりと表情に出ていた。

こんな事で本当に一年間、運営できるのか?

なぜPTAや育友会ってみんな敬遠するのか? 
行動を起こす前からしんどいとか自分には無理とか考えているからではないのか?

本当にそんなにしんどいモノなのか?

僕はそんな人たちを全員やってよかったと感じて貰える運営がしたい。

その時に決めたスローガンが

「楽に楽しく!」 

である。

最初からしんどいと思えばよけいにしんどくなる。

それを払拭したいが為に、しんどい事なんてなんにもない。

みんなでやれば一人のウエイトは知れている。

皆でやって楽にこなそう!

それよりも皆でやれば楽しくなる。

学生時代のサークルのように!!

親が子供のフィールドで親同士で楽しんでいれば子はどう思うと思いますか?

精一杯、自分たちで学校を楽しみましょう!

こんな挨拶をした。

そして一年後……

「皆さん楽しみましたか?」と投げかけた。

大きな笑い声と同時に大きな返事も帰ってきた。全員が笑顔だった。

結局僕は何もしていない。

学校との折衝や対外的な仕事以外、会長としての仕事はほかに何もしていない。

その気になった他の本部役員が楽しみ、それがどんどん連鎖していった。

皆満足顔で最後を迎えた。

今、時の役員さんはどうしているだろうか? 

その子供たちは?

自分に与えられたことを苦と思うのではなく、逃げずに自分で楽しみに変えれる人達とその子供である。

今年も精一杯、楽しむに違いない

今年も皆さん一年よろしく!!