2015年11月29日日曜日
地域を動かす。
2015年11月25日水曜日
自律 自立 自尊 自損 → 自存 ??
ふっと思った同音異義語
自立 自損 自律 自尊
対義語になりそうで全くならない・・・ なんか次のテーマができたような気がする!!!
根本は自存か?
2015年11月23日月曜日
形から入ってダメならやめればいい
でも最近なんかしっくりこない。
納得がいく場合と行かない場合のギャップが激しすぎる。
その答えがなんか見えたような気がする。
自分が置かれているフィールドの違い、本音の有る無しでその差が出る。
フィールドの違いは本当に大きい。
喜怒哀楽、人間らしく本音で行こう!
決して忘れてはいけないもの
しかし本当にそれでいいのか?
人間の本質を無視したシステム作りばかりしてるのではないか?
人の力こそが国の力 でも勘違いは地獄を見る
義理がもたらすもの
自ら必要がないと切った相手以外で人は離れていってませんか?
今、直接のつきあいが無くても何かあったときその繋がりは生きていますか?
生きていると感じているのは自分だけではないですか?
相手が離れて行ってるとしたらなぜでしょうか?
その相手に不義理はしてませんか?
出来てない人が本当に多いと感じます。
人との繋がりから新しい出会いや冒険があったとき…元を作った相手にほんの一言 それが相手の心を豊かにします。
でもそれがなければ…離れていって当たり前ですよね。
この差は本当に大きいです。
2015年10月2日金曜日
伏見稲荷の石段を登りながら
数ヶ月前、石段を登りながらふと気付いたことがあった。
長い石段を登るとき、しんどさからどうしても足下を見てしまう。
そこを意識して階段の上の方を見ながら登ってみた。
なんと楽であろう!! たぶん体力的しんどさは一緒なんだろうが、精神的なもが全然違う。
足下に多少気を遣うが是非やってみて欲しい。
そしてふと気がついた。何事も一緒だ。
目標を定めてそれを見つめながら前に進むのと、目標は定めるが下を向いて進むのでは、結果に大きな違いが出る。
折角目標を定めているのに、足下ばかりを見て進んでいれば、今自分がどんな進捗にいるのかもよく解らない。
しっかりと最終目的地を見据えながら、一段一段上っていくことが大切である。
下りは?
しっかり足元を見つめて降りてください。
降りていくときに先を見据える必要はありません!!(笑)
2015年8月3日月曜日
善と悪
その経緯はここでは書かないが、少しでも善いことをしましょうという投げかけに、善いこととはどういうことなのか?という質問は飛んだ。
人間は、善いことをしようとすると、少しでもより善いことをしようと考え、それが効果的なのかどうか考え、挙げ句の果てに悩んでしまい実行に移せない人が多い。
さて皆さん、善いこと「善」とは?の問に明確に答えることが出来ますか?
僕は、こう答えました。
そもそも、善という言葉は世の中には無かった。
何故なら今、善いと思われている行動は総て人間として当たり前の行動だったからである。
それはどういう基準からくるのか?
それは人間としての道徳に準じるものです。
ところが、その道徳から外れた行動をする輩が出てきた。
それは悪である。
道徳の枠の中は当たり前、そこからはみ出したのが悪である。
故に悪という言葉が先に生まれた。
そして悪に対する反意語として善ができたんだ。
だから善とは、道徳に準じるのも総てですよ。
だから、ふと気がついたこと、自分ためににではなく他人のためになるような些細なこと何でも善と捉えて良いんですよ。
だから悩むことではないですよ。
善=些細なことも含めて人としての当たり前の行動
悪=些細なことも含めて人として逸脱した行動
あくまでも私見です。
2015年7月23日木曜日
賛歌を口ずさみ英雄のごとく旅立て
人の信仰を貶めるな
人の考えを尊重し自分の考えも尊重してもらえるよう求めよ
人生を愛し全うせよ
あらゆるモノを美しく彩れ
長くいきるようにつとめ大切な人に尽くせ
そしてそのときが来たら死の恐怖にとらわれるモノになるな
もっと時間が欲しい 違う人生をやり直したいと嘆くものになるな
賛歌を口ずさみ英雄の帰還するがごとく旅立て
ストーリー上戦死したとある大尉の手紙である。
勇気あるところに常に希望は存在する
私たち経済人もま同じ戦士でなければらないと思う。戦う敵を間違うな!
出来る人間とは目的を明確にもって行動する人
それを認識しているかどうかは別として必ず目的が存在する。
それを確認してからする行動と、認識せずにする行動の結果には大きな違いが出る。
それに気付けば良いが、気付かずに事を進めていくと、全く無意味な行動にしかならない。
仕事のように目的が明確なモノほど取り返しのつかないことになってしまう。
ほんの数秒で良い。
なぜそれをするのか自問自答するだけで、明確な答えを導き出すことが出来る。
自分が任されている仕事は何が目的なのか?
自分が今から参加する会議は何を目的としているのか?
自分がこれから会う人間は何を目的として自分に合うのか?
意識を持ってやってみて!!
これをするだけで劇的に出来る人間になりますよ。
2015年6月22日月曜日
新しいものとのつきあい方・・・大親分が教えてくれたこと
建設業の存在意義。地域において目指さなければならないもの。
いろんな意味で、自分が経営理念に掲げ目指してきたものが明確に間違っていなかったことを確信できる時間であった。
そんな中で、一つの発表か自分に衝撃を与えた。
建設業における3Dの活用についてである。
今建設業は、大手を中心に、BIMやCIMといったような、3Dを活用した施工が次の時代の施工技術に進もうとしている。
BIMやCIMの詳しい説明は、Googleさんに聴いてみてほしい。
3D技術を施工に使う・・・・・・先ずはソフトの導入・・・そしてそのソフトを使いこなす・・・・・・・コレが普通の手順である。
そしてそのハードルが高いために踏み込むことが出来ない。
しかし、今回の発表は、3Dとはなんぞや?
モノの本質は何処にあるのか?
それをしっかりと解った上でその機能を取り入れているのか?ということを明確に教えてくれた。
人間はどうしても、機能や性能に目が向いてしまう。
自分にとってどうかというところに着目しすぎているからである。
いらぬ観念がそれを覆い包み、機能や性能、そこからくる結果が自分にとってどうかとしか見えていない。
それは決して間違いではないのだが、常に相手目線に立つことを主眼に置いて仕事する立場になれば、3Dのような先端技術はもっと大きな可能性を引き出せる。
謳われている機能は性能だけでは無く、モノの本質が解れば、その使い道は無限に広がるし、その導入にも明確な違った目的も見えてくる。
我々地位建設業において、素人である住民が顧客である以上、あらゆる技術を使いわかりやすく理解を得ることこそ必要なことである。
理解に苦しむ人に絵を描いて説明をする。そうすれば理解しやすくなる。
今までもやってきたことである。
そもそも3Dの原点はそこに集約される。
それが、パソコンに替わっただけなのだ。
BIMやCIMはその延長線上にあるモノである。
自分たちが得る機能や性能は二の次で、当たり前に付いてくる副産物と考えても過言ではない
ありがとう。大親分 これぞ原点回帰ですね
2015年5月16日土曜日
何から守るのか?
2015年5月13日水曜日
中立という使い勝手のいい言葉
2015年4月19日日曜日
リスク回避の手助けの仕方 仕方によっては・・・・
その人がこっちのフィールドに来て戻らないように助言するのが手助けなんだ。
迎えに行けば、それはその人のリスクにならない。
その人にリスクを負わせないのは、その人の成長には全く繋がらない。
違うフィールドに行くリスクはその本人しか負えない。
それがわかったものだけが成長という成果を得られる。
2015年4月16日木曜日
客観と主観、そして常識との関係
2015年4月3日金曜日
教育勅語 戦後の大学教育ってなんだったんだ?
教育勅語
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此
レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ
兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ
修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開
キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無
窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス
又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所
之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々
服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御名御璽
12の徳目
- 父母ニ孝ニ (親に孝養を尽くしましょう)
- 兄弟ニ友ニ (兄弟・姉妹は仲良くしましょう)
- 夫婦相和シ (夫婦は互いに分を守り仲睦まじくしましょう)
- 朋友相信シ (友だちはお互いに信じ合いましょう)
- 恭儉己レヲ持シ (自分の言動を慎みましょう)
- 博愛衆ニ及ホシ (広く全ての人に慈愛の手を差し伸べましょう)
- 學ヲ修メ業ヲ習ヒ (勉学に励み職業を身につけましょう)
- 以テ智能ヲ啓發シ (知識を養い才能を伸ばしましょう)
- 德器ヲ成就シ (人格の向上に努めましょう)
- 進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ (広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう)
- 常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ (法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう)
- 一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ (国に危機があったなら自発的に国のため力を尽くし、それにより永遠の皇国を支えましょう)
2015年3月21日土曜日
道を知っていることと歩くことは違う
2015年3月1日日曜日
ありがとう
2015年2月26日木曜日
使うところを間違えれば・・・
2015年2月22日日曜日
戦うべき相手は誰なのか?
2015年2月16日月曜日
継続的頑張るは最高の楽しみ
2015年2月10日火曜日
一番を目指すには
賛成をいう勇気
大切なのは、いなかる時も自分の意見として、主張することが大切で、頭の中で思っていても表現しなければ、相手にとっては意見がないと一緒になってしまうということだ。
2015年1月22日木曜日
バカな正義感
2015年1月21日水曜日
感性を磨く
2015年1月13日火曜日
継続は創造より難なり
最近この言葉をはき違えていると感じることが良くある。
残していかなければならない過去からの古き良き文化や習慣、これはまさしく、繰り返し継続させることで、伝承してきた。
しかし、新しいものを作り上げそれを定着させようとするとき、それは単に継続だけで良いのだろうか?
各地で地方を活性化させようとする取り組みが、多く開催されている。
私が住む奈良でも毎年何か新しい取り組みがスタートする。
確かに、地域の人達の中に危機感から生まれる発想力、企画力は素晴らしいものだと感じる。
そして、その取り組み(イベント)を繰り返し継続しているのだから、それも素晴らしいことだと感じる。
しかし、本当に繰り返し継続させているだけで良いのだろうか?
継続はされているが、定着したものはほんの一握りしか無いのでは無いか?
一つ例に挙げるとすれば、今はやりのB級グルメである。
そもそもが、昔から地方文化の中に定着しているものは良いとして、その地域の特色を生かしたグルメを創造しようとしたとき、それば定着する確率は非常に少ない。
なぜなのか?
原因はいろいろあるだろうが、その一つに、グルメ創造のイベントは毎年開催するものの、グルメ自体を定着させようとする地道な運動に力が入ってないのでは無いかと感じる。
イベントが定着を産むのでは無く、人の文化に入り込んで初めて定着となる。たしかに継続させることで定着に繋がることもあるだろうが、お祭り事はあくまでもお祭りであって、人の生活に入り込んでは来ない。
やはりそのための仕掛けは必要である。
ただやり続けるのでは無い。定着させるためにどのようにやり続けるかを考えて初めて継続である。
これは仕事においても同じ事である。
プロジェクトを仕掛けることは誰にでも出来る。(能力があれば・・・)
しかし、それを継続させ、定着させるためには、その為の仕掛けが必要なのだ。
プロジェクトは何を産むためのものなのか?
定着とはどういうことなのかを、紐解けばそれは自ずと答えが出る。
定着は、それに関わる人達が何を産み、それをどうしたいのか?しっかり意識を持つとことから始まる。
関わる人達が意識をもち継続させるという地道な内容に、しっかりとプロジェクトを組んだものが定着し成功に繋がるのだ。
これこそが「継続は力なり」と強く思う
継続は創造より遙かにハードルの高いものである。
2015年1月11日日曜日
経営の表裏のバランス
誘惑の怖さ
2015年1月2日金曜日
楽に楽しく
ふと、友人のFBを見て思い出した。
4年前 ひょんなことから息子が在籍していた高校の育友会長を引き受けた。
それまで6年間学校のある場所はだいたい知ってはいたが、初めて足を踏み入れた。
そんな人間が…と思われるかも知れないが、ひょんな事から白刃の矢がたち、「やってみなけりゃ解らない」の精神に乗っ取り、あっさりと引き受けた。
本部役員7名 学年の役員、委員全部で総勢103名だったと思う。
うち男が2名……
色んな組織に入り、いろんな役をさせていただいたが、この構成は初めてであった。
はじめての挨拶で登壇したときメンバーを見て大変なことになったと思った。
いろんな状況でこの場に座ってる人が居るだろう。
育友会を通じて学校に協力したい人、自分が楽しみたい人、嫌々ながら引き受けた人、くじ運が悪かった人等々 いろんな表情があった。
100名近い女性の顔にそれぞれの経緯がでていた。
特に嫌々でてくれた人ははっきりと表情に出ていた。
こんな事で本当に一年間、運営できるのか?
なぜPTAや育友会ってみんな敬遠するのか?
行動を起こす前からしんどいとか自分には無理とか考えているからではないのか?
本当にそんなにしんどいモノなのか?
僕はそんな人たちを全員やってよかったと感じて貰える運営がしたい。
その時に決めたスローガンが
「楽に楽しく!」
である。
最初からしんどいと思えばよけいにしんどくなる。
それを払拭したいが為に、しんどい事なんてなんにもない。
みんなでやれば一人のウエイトは知れている。
皆でやって楽にこなそう!
それよりも皆でやれば楽しくなる。
学生時代のサークルのように!!
親が子供のフィールドで親同士で楽しんでいれば子はどう思うと思いますか?
精一杯、自分たちで学校を楽しみましょう!
こんな挨拶をした。
そして一年後……
「皆さん楽しみましたか?」と投げかけた。
大きな笑い声と同時に大きな返事も帰ってきた。全員が笑顔だった。
結局僕は何もしていない。
学校との折衝や対外的な仕事以外、会長としての仕事はほかに何もしていない。
その気になった他の本部役員が楽しみ、それがどんどん連鎖していった。
皆満足顔で最後を迎えた。
今、時の役員さんはどうしているだろうか?
その子供たちは?
自分に与えられたことを苦と思うのではなく、逃げずに自分で楽しみに変えれる人達とその子供である。
今年も精一杯、楽しむに違いない
今年も皆さん一年よろしく!!