自分の世界、自分のフィールドで物事を判断してはいけないと前にも書いたことがある。
今回はそれを掘り下げてみたい。
自分は、人間の総ての常識を司っているわけでは無い。
と言うより、もしかしたら、自分の常識は他人から見たら殆ど非常識である場合の方が多い。
たとえば、世界が認める下手物食いナンバーワンは何人かご存知だろうか?
当然これにも色んな主観があるから一概には言えないが、実は日本人なのだ。
それは生卵を食することが世界の人には全く受け入れられない。
と言うように、自分にとって常識でも、周りから見れば非常識なことは多々ある。
ではそれを常に意識しながら行動しなければならないのか?
今の日本人は、昔に比べマシかもしれないが、他国の人からすると極端に人目を気にする。
もし自分が常識から外れているならと考えれば、恐くて行動できなくなってしまうはずである。
ではなぜ、行動できるのか?
ここに、他国の人と日本人の大きな違いがある。
日本人は、自分の行動が正しいかどうかを、同じ環境、同じフィールドに置かれている人と比較をし、その判断を下す。
具体的に言えば、サラリーマンは同じようなサラリーマン同士、経営者なら同じような経営者同士である。
よく似た境遇に安心感を求め、それを求める意識がまず最初に働く。
上にも行かないという見せかけの謙虚さと、だからといって下に下がるのも嫌だという意識が働く。
実はここに成長を妨げる要因がふんだんに含まれている。
他国の人達はどうか?
彼らは、決してよく似たフィールドの人の行動を見ることはしない。
常に、他のフィールドの人達の考えは?
どんな判断をするのか?
どんな行動をするのか?
それを学び、そこから自分の行動や考えが正しいかどうかの判断をする。
常に他を見ている。そしてそれは上を見ていることが殆どである。
決して嫉妬などというようなことでは無く、強い願望やあこがれを持って、素直に認め目指しているのだ。
未経験をなくすことが、正しい道を歩む唯一の方法と知っているからだ。
だから他のフィールドを知ろうとするのだ。
故に、日本人のように同じフィールドの物同士が澱んだように集まることが少ない。
決して他国の人を見習えとは言わない。
しかし、自分は日々学び、成長と言ってる人に限って、学んだ後の行動が気になってしようが無い。
客観的に見て行動に変かがない。
会話にしてもまったく、自分の常識の域を出ていないのだ。
それは評価にも同じ事が言える。
一生懸命学ぼうとする人がいる。自分を成長させようと努力している人がいる。
それは非常に良いのだが、ある領域まで来たときに、少し変化した自分に満足をして、自分は変化ができたと誤った判断を下し、ストップしてしまうのだ。
また、同じフィールの人に変化を褒めて貰いそれに満足をしている人もいる。これも間違いである。
成長しているかどうかは、自分が判断するのでは無く他人が判断するものである。
それも同じフィールドの人では無く、他のフィールドの人が評価して初めて正しい評価なのだ。
確かに自分の殻を破るというのは大変なことである。
しかし、自力で破るのは大変でも、他人に手伝って貰えばそれは、決して難しいことでは無い。
今までそんな人を何人も見てきたし、何人も協力をした。
しかし、自分を打ち破り、今、大きく羽ばたいている人はほんの一握りだ。
これは決して、立場や役職のことを行っているのでは無い。
人間は成長すれば、するほど、得るものは大きくなる。
成長とは、学びでは無く、行動することで初めて現れる。
そんな人達の集合体で常識が出来上がれば、この国は素晴らしいものになる。
日本人よ、もっと貪欲にならないか?
日本人の素晴らしい謙虚さの意味を取り違えて、行動している人が殆どだ。
いずれ日本人が持つ本来の謙虚さについて考えてみよう。
自分の導き方が悪いのかなぁ・・・・
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