2013年6月10日月曜日

自分と向き合うということ。

「自分と向き合ったことがありますか?」
昔よく言われた。
自分と向き合う・・・・・わかるようでわからない。
できているようで向きあえてない。
もしかしたら永遠のテーマで、きっちりと向き合えてる人はいないのかもしれない。
そんなあやふやなものなら、向き合う必要のないのではないか?と思われるかもしれないが、他人との関係をより良く構築して行くためには、やはり自分と向き合い、まず自分というものと知らなければならないだろう。

「自分はどんな人間か説明できますか?」という問いにはには、ほとんどの人が、長所と短所を説明することができるだろう。
ある意味これも自分と向き合うという一つの答えかもしれない。
しかしそんな短絡的なことではない。
長所と短所はえてして、主観的な観察から導き出されていることが非常に多い。

これではダメなのだ。

長所も短所も、客観的な観点で、自分を観察しなければならない。それが、自分と向き合うということである。

そして、長所短所だけではなく、、自分の思考特性、行動特性までもがその対象である。

主観的に自分の長所は見つけやすいだろう。
しかし、それが客観的となった時に、それは果たして長所なのか?

短所も一緒である。
ある意味、長所と一緒で自分の欠点を見つけるというのは安易であるが、無意識の自己の防衛からそれを掘り下げようとしない。
表面だけを短所や欠点と言ってしまう。
それは主観的行動である。

思考特性 行動特性を見ても同じことだ。
自分は良いと思ってやっていることが本当に正しいのか
自分の考えや行動の中に矛盾は生じていないのか。
今現在だけを観察すればそれは正しいと判断できるかもしれないが、他の感情や状況が変わった時などでも同じ判断を下せているのか?

このように長所や短所というのは主観的に見てみれば、案外表現できるのであるが、客観的に尚且つそれを掘り下げるとなると、容易なことではない。
思考特性、行動特性となればもうそれは数倍大変なことになる。
もしできたとしても、異常なくらいのエネルギーを必要とする。
通常の人間であれば、途中で断念してしまうであろう。
しかしそれにも負けず、遮断するのではなく掘り下げて自分を見つめなければならない。

では客観的に、分析ができたとしよう。
次はその分析を、冷静に受け止めなければならない。
また、修正もかけなければならない。
客観的に見た時に自分の判断や行動が、間違っている。背伸びしすぎている。稚拙すぎる。と判断できた場合、しようがないと諦めてしまうのではなく、まず現実論としてそれを受け入れなければならない。
人間は、自分にとって都合の良いことあれば、誰でも受け入れることはできるが、都合の悪いこと、批判されるべき内容については、どうしても逃げてしまう。そこを逃げずに、しっかりと認め受け入れることが大切なのだ。
ここが自分と向き合う時の最大のエネルギーのいるところである。でなければそこに成長は見込めない。

客観的に自分を分析し、それを自ら認め、悪しきことは修正を加える努力をする。
何とも微妙な書き方をした。
「修正を加える努力をする。」
内容によっては修正を加えることができない場合がある。悪しきことも、自分の個性という場合がある。こんな場合はどうするのか

修正を加える必要はないだろう。ただし、自分にはそんな思考や行動をすることがあるということをしっかりと頭に植え付ける必要がある。そうすることによって、その行動や思考は、決してマイナスには働かない。

そしてそこで導き出された自分こそが自分であるはずである。


自分が他人になり、自分を見つめ、そこに現れる自分をしっかりと認める。

それが向き合うということである。

これで自分の内にある自分の生きるための方向が明確になる。

そうすることにより、主観で動く自分を、常に客観的に見ている自分(自分の中の他人)が制御することができる。
何かまるで面白くない人生のように感じるかもしれないが、自分の進むべき道をしっかりと見極め、正しい行動を起こし、人との付き合いにも失敗なく、自分の意見を狂いなく表現できる、ブレのない人間となるのだ。

これこそが人の最大の信頼を勝ち取る最大の手法である。

再度、質問です。

あなたは自分と向き合えていますか?

もしまだなら一度向き合って見ませんか?

時間はかかります。

でも向き合えれば、その先の生き方は非常に楽になりますよ。

悩むことなんかほとんどなくなります。

常に自分にブレることのない答えをすぐに見出せますから!



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