2013年6月15日土曜日

日本原理主義者

こんな書き方をすれば、またまた光良過激なことを書こうとしているとお感じなるかもしれないが、この言葉は、作家の浅田次郎氏が書かれたことである。(はずである・・・)

私たちは戦後、高度経済成長ののちバブルを迎え、その崩壊により、超長期に渡るデフレという中で経済的には大打撃を受けてきたが 個人の考え方と生活スタイルだけは追求し成長を遂げてきた。

ただそれが、秩序あるものものであれば良いのであるが決してそうではない。

効率的、スタイルのかっこよさを追求するあまり、またそれが良いという自己の主張をしない、右に習え的な要素が加わり、加速度的に今の生活スタイルや国民意識までも変えてきてしまったのだ。

浅田氏がいうのはこのことなのだ。

私も深く同意する。

本来、日本人とはどんな人種だったのか?世界中でも数少ない単一国家単一民族の誇りと守らなければならない文化はどこに消え去ったのか?

世間を歩けば、日本語を話す西洋人のような日本人がほとんどである。

物理的なスタイルは良いとしても、日本人としての本来の心や文化はは忘れてはいけない。

日本人個人が心や文化を失わない限り、日本という国のスタイルは失われることはない。

個人個人がそんな意識をしっかりたもちたいものだ。

個人個人が日本を本気で愛する気持ちを持ちたい。

日本原理主義 万歳!!

サラッといつもの気持ちです。

2013年6月14日金曜日

感情のコントロール

感情には、喜怒哀楽に代表されるように常々人間が生きていく上においてつきまとう心の表れである。

ある意味、人間として生きているという実感を得ることが出来る事柄の一つであろう。

ただ人間社会を生きていく上で、この感情をあからさまに出すことは人間関係を構築する上に置いてよしとされるものではない。

出せるときにはどんどん出せば良いが、TPOに合わせ、そうでないときが多々ある。


人間はそんなとき感情をコントロールする。


実はこのコントロールには2種類ある。

よく使われるのは、高ぶってしまっている感情を抑え込むと言うことである。

これでよく見るおもしろい光景がある。

電車の中等で、子供が大声を上げて泣いている。

内容は解らないが、子供が何らかの理由で泣くという行為で感情を出しているのだ。

ただ、電車の中という状況を考えると親としてはそれを押さえさせなければならない。

必死であやす親が多い。

これは普通によく見る光景だ。

あやすという行為によって感情を抑えさせようとしている。

至って当たり前の光景である。

だがたまに、こんな光景を見る。

同じ状況で、親が大声で子供をしかりつけて黙らそうとしている状況である。

感情のコントロールが出来ない子供に感情をコントロールすることなくあらわにして叱りつけているいる親がいる。

どっちがどうやねん、といいたくなる笑える光景である。


それはさておき、感情の高ぶりを押さえるコントロールの他にもう一つのコントロールがある。

それはその逆の行為、平心状態からワザと高ぶらせるというコントロールだ。

皆さんも何回かは経験あるだろう。

高ぶってる感情を押さえることもエネルギーのいることだが、その逆は実はもっとエネルギーがいる。

一時的に高ぶらせることはそんなに難しくないが、それを持続させるというところに非常な難しさがある。

それこそ感情のコントロールだ。

コツなんて無いのかも知れない。

またそこまでする必要があるのかという声も聞こえてきそうだが、でもなりきれば楽しいもんなんですよね!!

2013年6月13日木曜日

僕の時間軸 人の時間軸 地球の時間軸 宇宙の時間軸

あなたは物事をを考えるときどんな時間軸で判断しますか?

ほとんどの人は、当たり前であるが、自分の時間軸で物事の判断をするはずである。

それは何も不思議ではない。当然のことだ。


ひとりの人間の時間軸の単位は、平均寿命と置き換えれば、だいたい85歳ぐらいになる(あくまでも男女の平均の平均くらい)

人間が物事を無意識に判断するときの時間軸は、案外これにの乗っ取っていることが多い。

自分の人生を、ベースに考え、それがすべての時間軸のように判断している。

ただ、すべての事象が、人間1人の時間軸で語られているかというと実はそうではないのだ。

たとえば、動物の進化をテレビのドキュメンタリーで見たいたとしよう

1時間ないしは2時間の番組の中で、実は数千年の進化を見せてしまう。

確かに、1時間や2時間で人類は何の進化も起こさないのは理解はしているが、テレビの中で語られている時間軸をしっかりと把握しながら番組を見ているかというと決してそうではない。

これを宇宙に置き換えてみよう

地球の誕生と月の誕生が45億年くらい前である。

もう想像できない時間軸がそこには存在するのだ。


それから考えると人の人生は本当に一瞬でしかないが、人間は時間軸においても自分を中心とする主観的物事で捉えていると言える。

そうしてもその時間軸が主になって考えてしまう。

得てして真実を見誤りかねない。

飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、戦国時代、江戸時代、明治時代、大正時代、昭和時代、平成時代
歴史で学ぶ年表に出てくるそれぞれの時代を順に書いて見た。

自分の馬鹿さを暴露することになるかもしれないが、今書いた時代はすべて、並列にあるものと思っていた。

西暦で考えればなんてことない話だが、学校で学んだ時はそのように考えていた。

いうまでもなく、明治、大正、昭和は他のものとは一緒ではない。この3つについては年号である。

他はそうではない。言わば、明治、大正、昭和は人の時間軸で判断できる表現されたものであり、その他は日本という時間軸で表現された歴史である。

わかってみれば当たり前だが、深く考えると何と無く複雑になってくる。

個人と人、 国と世界、 そして宇宙、それぞれ同じ時間で動いているにもかかわらず、ものの大きさによってその表現方法は変わってしまう。

冷静に判断しなければ大きな勘違いにつながってしまう。

主観で物事を判断すると大変なことになるという一つの例

2013年6月10日月曜日

自分と向き合うということ。

「自分と向き合ったことがありますか?」
昔よく言われた。
自分と向き合う・・・・・わかるようでわからない。
できているようで向きあえてない。
もしかしたら永遠のテーマで、きっちりと向き合えてる人はいないのかもしれない。
そんなあやふやなものなら、向き合う必要のないのではないか?と思われるかもしれないが、他人との関係をより良く構築して行くためには、やはり自分と向き合い、まず自分というものと知らなければならないだろう。

「自分はどんな人間か説明できますか?」という問いにはには、ほとんどの人が、長所と短所を説明することができるだろう。
ある意味これも自分と向き合うという一つの答えかもしれない。
しかしそんな短絡的なことではない。
長所と短所はえてして、主観的な観察から導き出されていることが非常に多い。

これではダメなのだ。

長所も短所も、客観的な観点で、自分を観察しなければならない。それが、自分と向き合うということである。

そして、長所短所だけではなく、、自分の思考特性、行動特性までもがその対象である。

主観的に自分の長所は見つけやすいだろう。
しかし、それが客観的となった時に、それは果たして長所なのか?

短所も一緒である。
ある意味、長所と一緒で自分の欠点を見つけるというのは安易であるが、無意識の自己の防衛からそれを掘り下げようとしない。
表面だけを短所や欠点と言ってしまう。
それは主観的行動である。

思考特性 行動特性を見ても同じことだ。
自分は良いと思ってやっていることが本当に正しいのか
自分の考えや行動の中に矛盾は生じていないのか。
今現在だけを観察すればそれは正しいと判断できるかもしれないが、他の感情や状況が変わった時などでも同じ判断を下せているのか?

このように長所や短所というのは主観的に見てみれば、案外表現できるのであるが、客観的に尚且つそれを掘り下げるとなると、容易なことではない。
思考特性、行動特性となればもうそれは数倍大変なことになる。
もしできたとしても、異常なくらいのエネルギーを必要とする。
通常の人間であれば、途中で断念してしまうであろう。
しかしそれにも負けず、遮断するのではなく掘り下げて自分を見つめなければならない。

では客観的に、分析ができたとしよう。
次はその分析を、冷静に受け止めなければならない。
また、修正もかけなければならない。
客観的に見た時に自分の判断や行動が、間違っている。背伸びしすぎている。稚拙すぎる。と判断できた場合、しようがないと諦めてしまうのではなく、まず現実論としてそれを受け入れなければならない。
人間は、自分にとって都合の良いことあれば、誰でも受け入れることはできるが、都合の悪いこと、批判されるべき内容については、どうしても逃げてしまう。そこを逃げずに、しっかりと認め受け入れることが大切なのだ。
ここが自分と向き合う時の最大のエネルギーのいるところである。でなければそこに成長は見込めない。

客観的に自分を分析し、それを自ら認め、悪しきことは修正を加える努力をする。
何とも微妙な書き方をした。
「修正を加える努力をする。」
内容によっては修正を加えることができない場合がある。悪しきことも、自分の個性という場合がある。こんな場合はどうするのか

修正を加える必要はないだろう。ただし、自分にはそんな思考や行動をすることがあるということをしっかりと頭に植え付ける必要がある。そうすることによって、その行動や思考は、決してマイナスには働かない。

そしてそこで導き出された自分こそが自分であるはずである。


自分が他人になり、自分を見つめ、そこに現れる自分をしっかりと認める。

それが向き合うということである。

これで自分の内にある自分の生きるための方向が明確になる。

そうすることにより、主観で動く自分を、常に客観的に見ている自分(自分の中の他人)が制御することができる。
何かまるで面白くない人生のように感じるかもしれないが、自分の進むべき道をしっかりと見極め、正しい行動を起こし、人との付き合いにも失敗なく、自分の意見を狂いなく表現できる、ブレのない人間となるのだ。

これこそが人の最大の信頼を勝ち取る最大の手法である。

再度、質問です。

あなたは自分と向き合えていますか?

もしまだなら一度向き合って見ませんか?

時間はかかります。

でも向き合えれば、その先の生き方は非常に楽になりますよ。

悩むことなんかほとんどなくなります。

常に自分にブレることのない答えをすぐに見出せますから!



2013年6月1日土曜日

大連に思う

初めて中国に上陸した。

中国でも、超親日とされる大連である。

いろんな意味で、ドキドキしながらの上陸であった。

今回は、奈良の企業で大連にも進出されている方の手引きでの訪中となった。

空港におりたち、バスでの移動中驚いたのは、高層ビルの多さである。

なんなんだ?この街は!東京に負けず劣らずの高層ビルが立ち並ぶ。大阪なんかめじゃないぞと言いたげなくらいの勢いを感じる。

しかし、ガイドさんの話を聞いて愕然とする。

ほとんどの最近できた高層マンション群は、ほぼ空き家だという。

にもかかわらず、建設中の建物も数多くある。

確かに投資目的でマンションを買うのとはあるだろうが、それは、先を見こせるからであって、待ちを見ている限り先が見えているとは感じられない。

俺がついていけてないだけなのか?

大連市内に入っても同じような状況が続く。

シドニーにあるオペラハウスに似せて作られた貝の博物館は、築後4年が立ち、未だにオープンしていない。

大連駅前の商業ビル(30回建くらい)は、完全な幽霊ビルとなっている。

一度競売にかけられたが売れなかったという。

にもかかわらず、横では超高層ビルが建設されているのだ。

日本では到底考えることのできない光景である。

何故こんなことが起こるのか?

いろいろな要因はあるだろうが、大きな要因の一つに経済戦略計画の甘さだろう。

街を見ていても計画的とは決して言えない開発が進む。

最初のビジョンはあるのだ。

故にき綺麗な公園や道路やビルができる。

しかし、先の見通しを考えないまま開発が進められている。

始めてきた人間が見ても計画の甘さは歴然で、まだそれに懲りずに開発をするという繰り返しをしている。

もうひとつ大きな裏の要因として、官民の癒着がある。高級官僚の汚職である。

開発の許可を下ろすかわりに、巨額のバックマージンの要求である。

そのすべてが国営銀行の融資によるものだ。

こんな私腹を肥やすために巨大プロジェクトが進められたとしかいいようがない。

街の発展よりも自分の私腹なのだ。そう考えるしか理解できない。

こんなことが中国の主要都市では起こっている。当然貧富の差は激しくなる。

中国人は日本人を見て、羨ましい社会主義国というそうである。

そりゃ日本の方が社会主義国だわ。貧富の差がないんだもん

一党独裁のきしみが露骨に出ている証拠であろう。

ある意味怖くてしようがない。