2013年3月31日日曜日

ポンペイにて その3 人間性について

その3では、ポンペイ人の人間性について書いてみようと思う。

先でも少し触れたが、非常にのんびりとした国民性である。

これはここポンペイに限ったことではないが、特に、男性は非常にのんびりしている。

働かなければならないという強い意思はない。働かなくても、食えるというのが最大の理由であろうが、本当にのんびりしている。

良さは何なのか?それは相手に対する気遣いが人一倍凄いことだ。

気に入った人には、こちらが気を遣うくらい気遣ってくれる。

相手を思いやりそれを表現するのは日本人以上のものがある。


事実、ダイビングサービスで働いているアンディという青年も、至れり尽くせりの対応をしてくれる。

これは日本人に教えられたからではないようだ。

ミクロネシア大学で働く、日本人の客員教授に聞いた話である。

この客員教授は女性で、ミクロネシアで看護などの調査研究などをされている。ちなみにこの教授、女性で何と同じ奈良県の出身であった。

ポンペイのいろんな村を定期的に回り、調査をしているという。

初めて訪問した時には、懐疑的であるが、会を重ねれば、その村のお祭りごととなってしまうという。

今日は◯◯先生がくるぞ。
宴会の準備だぁ!というような状況であるらしい。


なぜそうなったのか?とある行動をとったことが、この先生はいい人だということにつながり、一気にお祭りにまで発展したという。

これはどの村においても同じことらしい。

良いと感じた人にはトコトンなのである。

自分たちの収入がほとんど無いのにである。


これも同じ先生の話。

とある時、部屋のクリーイングをたまに頼む地元の女性にお願いした。

仕事から戻ってみると、そこには、素晴らしく立派なバナナが塊で置いてあったらしい。

次にあった時に、その女性に、あのバナナはあなたが置いてくれたの?

家でできたもの?

と聞いたらしい。
返事は、ーいいえ、スーパーに行ってあまりに美味しそうだったため、先生に食べてもらおうと買ってきましたとのこと・・・日本で売ってるような房の大きさではない。

塊である。僕は知らないがある程度の値段はするらしい。

決して、こちらの給料からすっと買えるような代物ではないらしい。

このように自分を犠牲にしてでも気にいった相手には尽くしてしまう。

それが国民の中に根付いているという。


もう一つの国民性をあげるとそれは、プライドが高いということである。


特に冠婚葬祭時には、糸目もなくお金を使う。

たとえ借金をしてでも使うらしい。

葬式は、始まりから終わりまで、一週間がザラだそうだ。

その間に豚を一匹丸焼きにするらしい。

昔からの風習もあるだろうが、家族のプライドが全面に出てくるらしい。


二つの特性をあげてみたが、一昔前の日本によく似てると思うのは自分だけだろうか?

2013年3月29日金曜日

ポンペイにて その2 街並みについて

その1でも書いたように、国内における農産品はほとんど生産されていない。

ではどうしているのか?

当然、輸入が大半を占める。

生鮮野菜や、卵までも米国からの輸入である。

最近は、スーパーなどで、御多分に洩れず中国製が幅を聞かせてきているようである。

日本の製品も多く輸入はされている。
日本人が経営するYOSHIE STORE


ただ、ほとんどの家族が収入があまりないためそのようなものも贅沢品となるのかもしれない。

スーパーで見かける人はまばらである。



商店は、必要最低限のものがあると言ったような程度である。

スーパーマーケットが数軒、ホームセンター大小数軒、 大きな酒屋1軒、衣料品などを売る雑貨屋、ガソリンスタンド、レストランぐらいである。

当然、外国人を相手にしたような土産物屋などは全く一件もない。

あちこちに点在している(日本のコンビニのようにある)のはカウンターだけの小さな小さな雑貨屋が多くある。
このようなお店が島内あちこちにある
ジュース、缶詰、ほんの少しのお菓子、タバコなどはそこで手にはいる。


ホテルは数件あるが、日本でいうビジネスホテルにも全く至らないレベルのホテルである。

お湯が出るかどうかは、その日次第と言ったところか・・・

日本のビジネスホテルより優れているのは広さくらいである。

今回宿泊した部屋は、蟻があちこち湧いていた。 フロントには人はおらず、部屋に電話もない。

前回の宿泊先は、部屋の中に当たり前にヤモリがいる。

夜中にキューキュー鳴き、眠れなかった。

日本人経営のホテル ここのレストランは美味いぞ
これがトップレベルのホテルである。

海外からの先進国訪問者はよほどの覚悟がない限り滞在は不可能と言って良い。


ところがである。彼らの移動手段は、歩くか自動車・・・・・自転車でもバイクでもない。ほとんどが自動車で移動している。

訳を聞いてみると、家族が一度に移動できるのが車だという理由らしい。

どこの国から入ってきているのか日本車が多い。

当たり前といえばそれまでだが・・・国内では絶対見ないような車が、

普通に走っている。改めて日本車の頑丈さを実感してしまう。

フィリピンやベトナムで走っているのはまだまだ綺麗な車である。

ミクロネシアで走っているのは、その中古と思えるような車である。真意はわからないが・・・・・

そういえば、ヒュンダイの販売店ができていた。誰が買うのか?

おろし金状態の舗装道路
いづれにしても、3回目の訪問であるが、自転車もバイクも一切見たことがない。

ある意味こんな国は初めてだ。


道路に至っては、幹線道路はほぼ、舗装されているが、修繕がほとんどなされていないため、ガタガタである。

幹線道路と言っても、島を周回する道路と街中の一部だけではあるが・・・

特に、米国によって舗装された道路はおろし金のように骨材が尖って露出している。

人間でもこけると怪我をしそうな勢いである。

一部日本の建設会社が施工しているが、そちらは綺麗なもんだ。

さすがと実感する。

ポンペイにとってイメージの悪いことばかりを書いたが、あくまでも他国の南国リゾートのような感覚で訪問するところでないことを伝えたいために会えて書いた。

日本人だけではなく、人間は、自分がスタンダードと考えてしまう。

そして、特に先進国の人間たちは、その目線で他を評価したり、勝手に思い込んだりするものだ。

南国リゾートの感覚で決して訪問して欲しくない。訪問した人も不幸であるし、観光に全く力をいれていないポンペイの人たちにとってもそのような目線で見られることは不幸なことかもしれない。

ぜひしっかりと情報をいれた上で訪問して欲しい。

ポンペイにて その3に続く

ポンペイにて その1

10ヶ月ぶりにミクロネシア共和国(FSM)訪問。首都ポンペイである。

3年前の初訪問から3回目の訪問になる。

ポンペイ空港

今回もダイビングとビジネスを兼ねた訪問となった。


首都ポンペイは、グアムから乗り継ぎ、チュークを経由して、訪れることができる。

チュークは訪問したことがないが、今回も、チュークでは、何人かの日本人が降りて行った。

観光に力をいれているらしく、ジープ島などが有名で、最近日本人が多いという。


さてポンペイ・・・首都でありながらなかなか発展できない。

日本がバブルの頃は、日本人ダイビングサービスが5件あり、日本からもダイバーを中心に訪れていたようだ。

だか、以降、ダイビングサービスもなくなり、現在は、日本人ダイビングサービスは僕が関係するCLUB PALEO1件のみである。

日本から時間がかかる(トランジットを含め約9時間)。

施設が全く充実していない(近代的施設のホテルは皆無)。

など、マイナス要因が数ある中で、パラオなどに客を取れ、日本人には無名の島となってしました。
旧日本海軍の船着き場後
歴史を振り返ると、ミクロネシアは大戦中日本軍が占領した歴史があり、戦史に詳しい人には、忘れることの出来ない地域である。

特に先述したチュークは、トラック諸島といえば多くの方がご存知のはずである。

このポンペイにも、旧日本海軍の爪痕が多く残る。


そもそも、ポンペイは、スペインの植民地であった。

その後、ドイツの占領下になり、最後に日本が占領するという歴史をたどっている。

スペイン、ドイツの両国の統治時代の建物などもいくつか残り当時を垣間みることもできる。


しかし、ミクロネシア人からみると、スペイン、ドイツともにひどくしいたげらてたという過去があり、反スペイン、反ドイツの色は未だに残っている。

スペイン統治時代の擁壁
それにひきかえ、現代の親日ぶりは見事なものである。日本人の当時からの人間性が伺える対応をしてもらえる。
日本軍戦没者および
ポンペイ開拓に力を
注いだ日本人物故者の慰霊碑
 さて国自体は、そもそもが酋長の国であっただけに、なかなか文化的発展を遂げることができずにいる。

特に海外との国交では、ミクロネシアの国民性なのか、非常に消極的であり雨が豊富で海洋資源、観光資源が豊かであるにもかかわらず、放置されているのが現状だ。

雨が豊富な分、農業や漁業が盛んに感じられるが、漁業についても自分たちが食べる分だけ、農産物に限っては、一部を除き、ほとんどが栽培などはされていない。

輸出による収入ということは全く考えていない。というよりは、海洋漁業権を中国や韓国などに売り、国の収入としている。

日本人からみると非常に持ったいない国である。

国民性を見ても、海洋資源や自然農産物が豊富なため、贅沢をしなければ食べる事に困ることはないため、しゃかりきに働く男子が非常に少ない。
ドイツ統治時代の教会

非常にのんびりとした国である。これはミクロネシアに限ったことではないが、男子よりも女子がよく働く。

また、家族においても女子が中心で家族か構成されていることが多い。

詳しくはここでは触れない。みなさんの想像にお任せする。

その2に続く







2013年3月25日月曜日

万年筆の魔術

最近万年筆にはまっている。

知れば知るほど奥深い筆記具だと解る。

その万年筆で手紙を書いてみる。

今まで何度も、ボールペンで手書きの手紙を試みたが、書いてる最中に嫌になってくる。

全く気が乗らない。結局キーボードに向かってる自分がいた。

その間核とは全然違う


数ヶ月前、ひょんなきっかけから、万年筆に興味を持った。

ちょうど京都の街を歩いてたときだった。

知人が突然モンブランのボールペンを買ってきて欲しいと知らせてきた。

はぁ?突然何だぁ?

けったいな事言いよるなぁと思いながら、歩くと、100mも歩かないうちにモンブランの専門店が目の前に!!

何じゃこのタイミング・・・・

考えるまもなく、店に入ってしまっている自分がいた。

いろいろ物色・・・

そしてボールペンの購入・・・・

で終われば良かったのだが、見てしまった。マイスターシュティック149 万年筆の王道である。

威風堂々としている。

どんな書き味なんだろう?

その時には決心つかず、しかし数日後に手にすることになる。


そしてそれから、手紙を書き始めた。

なんなんだこの感動!!

楽しい!!!

昔の感覚と全然違う・・・

年齢を重ねたこともあるのだろうが、ワクワクしながら手紙を書いている自分がいる。

今は手紙が書きたくてしようが無い。

手書きの方が相手に気持ちを伝わるということは解ってはいたが、いままで体験できなかった事を今強烈に実感している。

冷静に相手のことを考えながら手紙を書いている。

自分の精神統一にもなる

もっともっと、言葉に表せない感動や気づきが山ほどあるのかもしれない。

万年筆で手紙を書いている自分が今は一番好きかも知れない


これぞ万年筆の魔術なのか?

ある意味非常に危険な魔術だ

欲しい万年筆がいくつか出てきた。やばい・・・・


2013年3月23日土曜日

人との出会いは変化するチャンス(光良実践編その3)

その1では自分の変化、その2では周りを変化させたお話をした。

今回は、会社を変化させるきっかけのお話をしたい。

2006年、自分は弊社の専務取締役をしていた。

建設業が、バブルの崩壊、小泉改革で、公共事業費の低下から、業績がドンドン悪化していた時期である。

何か対策を練らなければ、生き残れない。

他社をみても、異業種に進出したり、リフォームなどの別の事業展開をしたりといろいろ仕掛けている。

しかし自分は、他社がやっている内容に、決定打はないと思っていた。

事実弊社も、新しい事業に取り組むべく、他社と事業提携などをして営業種目を拡大することもやって見た。

結果はここでは書かないが、タイムリーでなかったことは間違いない。

自分としては、本業の立て直しで、どうにかこの苦境を乗り越えたい。

なぜか?

理由の一つは、異業種に出るにしてもそんなノウハウはない。

ノウハウを身につけるにも時間がない。

もうひとつは、本業にはまだまだ未知の可能性があると思っていた。

事実、数十年に渡り社内的に何の改革もすることなく今まできている。

非効率なことがあちこちにあるはずである。

それを整理するだけでも、売り上げはあげることができなくても、利益は出せるはずである。

そんなことを考えていた。


では何をすればいいのか?


一つは社内改革、システムの再構築である。

抜本的に無駄を省いて効率的にシステムを動かさなければならない。

ある意味、建設業の受注から引き渡しまでのプロセスを一新するくらいの覚悟で望めば、新しいものが見えてくるはずだ。

もう一つは、公共事業中心の営業体制を民間中心にシフトすること

こう書いてみると、方向性も明確で、進めるだけで済むように見えるが、ここからがいばらの道であった。

公共事業の営業しかしたことがない自分にすぐ民間営業なんかできるはずがない。

民間営業に長けた人にきてもらうしかないのだ。

システムの効率化もなかなかうまく進まない。社員達が今まで慣れ親しんできたシステムから意識を変えるという変化を嫌う

方向性は決まっているのに、ぜんぜん前進しない。

自分自身も営業の壁を突破できずにいる。


そして、1年後に社長の就任が決まった。

より複雑な気持ちになった。

どうすればいいのだ。

そして一つの考えが頭をよぎる。

社長になった途端に、会社を精算する。

ダラダラ改革ができずに消えて行くぐらいなら、はっきりと答えを出した方がいい。

実はそこまで追い込まれていた。


ところがである。

社長就任を3ヶ月後に控えた時、一人の人物が現れた。

社長(先代)が、民間営業できる人を探していたのだ。

そういえば、1年くらい前に探して欲しいと依頼していたことに気づく。

時間はかかったが、そん人物が現れた。

今の専務である。

当然、前から知った人物であったために、「いける!」と確信する。

何の根拠もない。

でも、一人の人物が現れただけで自信が湧いてきた。

そしてほぼ同じ時をしてもう一人の人物に出会う。

K氏である。

彼は、建設業の工程管理を抜本的に改革する手法を教えてくれた。

自分は即それに飛びついた。

これだったら、簡単だ!

技術者たちも負担感なく取り組んでくれるのではないか!?

そして社長に就任する。

半年前の自分はもうとっくに忘れていた。

就任した時は、できる!絶対勝ち組に残れると自身に満ち溢れていた。


そしてその出会いが、自分を劇的に変えて行く。

人との出会いが唯一の学びであり、成功を収める一番の近道と信じてる自分にとって、こんなチャンスを逃すてはない。


どこまでもやってやる。


K氏を通じて、今までにはない人達はの付き合いが始まる。

全国の同業他社の前向きな社長たちとの交流がスタートした。

何を今まで井の中の蛙で悩んでいたんだ?

ここにくればすべて解決したではないか!と思えるくらいの人材の宝庫である。

そして、全国に僕の名前が広がっていく。

人の力、人の繋がり、自分の意思の強さ、それぞれが絡み合って今の自分がいる。

当然、責任も増大する。

しかしそれを今は楽しんでいる。

社長就任の時には、今、自分が置かれているポジションなんて想像できなかった。

しかし自分は、出会いはチャンスだということを頑なに信じ頑張ってきた成果が今の自分だ。

そして、その輪は、今、従業員にも広げている。

昨年あたりから、自分の出張にいろんな社員を帯同させている。

自分が経験してきたことを、口で伝えるより、実際に経験させたほうがよりリアルに伝わる。

そしてその社員たちも劇的に変化を表し出した。責任感が出てきたのだ。

やはりこれも、人との出会いが導いたものである。

おかげで今では、自身に満ち溢れた社内に変わったと自負している。

さて、これからだ。これからが本格的な手法(手段)を使って、建設業という王道の中心でオンリーワンの会社を目指す。


これから先も、人との出会いは自分に変化を起こさせる最大のチャンスを信じ、そのチャンスを決して逃すことのないよう成長を続けたい。



実践編 完

2013年3月22日金曜日

人との出会いは変化するチャンス(光良実践編その2)

劇的に変化を遂げることができた自分は4年後に次の大きな壁にぶち当たる。

自分の変化が就職に悪影響を及ぼしたということではない。


就職後配属された部署がおかれている大部屋に問題があった。

100人あまりが働いているにもかかわらず、空気が動いていないのだ。

おとなしいという言葉を通り越して、人の存在を感じない。

4年前に能動的に行動するように変化を遂げた自分にとって驚くぐらいの障壁であった。


どうしたものか?このままでは自分はもたない。

会社を辞めるべきなのか?我慢をしてこの中で働くべきなのか?どちらを選ぶべきなんだ?

社会のシステムもまだわからない自分にとって、どちらを選択するべきなんだ?

配属後一週間ぐらい悩みに悩んだ。


そして、出した答えは、このどちらでも無い。

自分で変化させればいいじゃにか!という無茶苦茶な答えであった。

通常であれば、誰かを巻き込んで行動を起こさないといけないところではあるが、周りの人を誰一人しならない自分にとっては、ひとりプロジェクトとして進めるしかない。

相手は、大部屋にいる100名余りの先輩社員たちである。


そして早速行動に移した。

決して大風呂敷をを広げたわけではない

些細なことからやりはじめた。

コピーの後自席に戻る途中に、先輩の方をチョんた叩くスキンシップだったり、頑張ってますか?とさらっと声を掛けるというようなことをやり出した。

それの繰り返しを意識しながら継続した。

そして、半年後、劇的に変化したのだ。

大部屋に活気が出てきた。

なぜそんなにも早く答えが出たかというを簡単なことだ。

先輩社員たちも同じことを考えていた。

ただ、やり出すきっかけが無かっただけなのだ。

ほんの少しの行動がきっかけとなって、大きな変化を起こすことができる。

これも、新しく出会った全く知らない人たちの中で、覚悟を決めて行動を起こした結果である。

そして自分の得た経験値は凄いものがあった。


ただ上司からは睨まれてしまったが・・・・・



実践編その3に続く

2013年3月21日木曜日

人との出会いは変化するチャンス(光良実践編その1)

高校生までの自分は、全く目立つことのない存在だった。

クラスで、リーダー的存在でもなく、だからと言って孤独ということでもない。

ごくごく普通の学生であった。

在学中はそんな自分が嫌と感じたこともなかった。


高校を卒業し、大学進学のため、一人で生活する下宿に向けて出発した。

案外早めに出発したため、下宿に到着したのは、自分が一番であった。

これからどんな人たちと、ここで俺は生活するんだろう?と一人、六畳一間の部屋でぼーっと考えていた。

これから一緒に生活する人たちは、今までの僕を知る人はいない。

18年間の中村光良の過去を知らない人たちとの生活である。


その時にふっと気がついた。

今までと同じ事をしてもいいのだろうかと……

そして自分を客観的に振り返ってみた。

そこには個性のない自分がいた。

本当にこのままでいいのか?それで自分は満足なのか?

幸いこれから一緒に生活をするであろう人達は、自分のことは知らない。

もしかすれば自分を変える最大のチャンスなんじゃないのか?


そして、決心をし、自分を変える行動に出る。

常に集団の中心にいることに心がけた。そして自発的に発言をした。

確かに最初は、息が詰まるくらい努力しなければできなかった。

しかしそれにだんだん慣れてきた時、過去の自分とは違う自分がそこにいた。


そしてすごく心地いい。

自分を変えることができた瞬間だった。


それは今の自分の原点である。

この話をすると、みんなビックリするが、実はこれが事実なんだ。

そして、人は覚悟と努力があれば自分を変えることができる。

そしてそのキッカケは、大きな環境の変化をうまく使うことができた。

もし一人でも過去の自分を知る人間がいれば、変化を起こすことはできなかったかもしれない。

人との新しい出会いは、大きく自分を変化させるキッカケになる。そのチャンスを逃す手はない。



実践編その2に続く

2013年3月20日水曜日

人との出会いは変化するチャンス(理論編)

自分が変化を起こすきっかけってどうしてます?

人間は無意識にほっておくと、楽なように生きようとする。

楽に生きるとは変化を望まない生き方である。

変化するということは非常にエネルギーのいることで、よほど意識しなければ、自分の環境に変化を加えることはできない。

エネルギーがあっても、よっぽどのきっかけが無い限り変化させることはできない。


自分は、人との出会いや別れを、変化を起こすきっかけとしている。

出会いや別れは、自分の人生でも大きな出来事あるし、いろんな意味でキーポイントになる場である。

人との出会いや別れだけでも大きな変化かもしれないが、そのタイミングで環境を変えようとする。

別れはなかなか、自分の意思だけで実行には移せないが、出会いは、自分の行動しだいだ。

ある意味、変化を求め続けているのであろうし、そのタイミングが多ければ多いほど、環境を変えるチャンスも訪れる。


組織においても同じことが言える。

人との出会いと別れ、新しい社員を迎え入れる時が、一番会社を変化させるチャンスだ。

滅多にないタイミングを逃してはもったいない。

もうじき新入社員が入ってくる。

変化を起こす最高のタイミングを逃す手は無い

2013年3月19日火曜日

友を呼ぶ呼び方

人は多くの人に囲まれている生きている。

他人とコミュニケーションを図るとき、その人に対しての呼び方がある。

人はそれぞれ、自分から見て立場が違う。それは相手も同じことだ。

それは、家族、友人、先輩、同輩、後輩、上司、部下・・・・・・

ありとあらゆる立場の人がいる。


では、それぞれの立場の人は全員同じ付き合いなのか?

自分にとって先輩と言われる人は、すべて同じ付き合いをしているかということである。

決してそうではないはずだ。人間同志の関係は、そんな単純なものではない。

一人一人付き合い方が変わるのが当たり前である。

一つの枠に押し込めて、同じコミュニケーションの取り方をする方がむしろ、関係を悪化させかねない。


さてここで、そのコミュニケーションにとって非常に大切な相手を呼ぶ呼び方に着目しよう。

相手が先輩であれば、必ず、◯◯さんとか、◯◯先輩と呼んでいるか?

決してそうではないはずだ。

人間関係の深さによってその呼び方は変わるはずである。

より深くなれば、より親しみのある呼び方で呼びたいし、相手からも呼んでもらいたい。

先輩後輩の関係であっても、あだなで呼んだり、ちゃん付けで呼び合ったりしているのを見ることがある。

それこそが、その二人の関係をすごく表してる一番わかりやすい表現だ。


では、親しみを感じれば、自分から率先して、親しみのある呼び方で呼んでいいかというと決してそうではない。

当然相手の合意の元でなければ関係をを悪化させてしまうことは当然だ。

出逢って2回目で、先輩に◯◯ちゃんと呼んでしまえばそれで関係は終わってしまう。

一にも二にもお互いの理解がどこまで深まっているか、またそれをお互いがどこまで理解しているかが非常に大切である。


いつどのタイミングで、親しみを持って呼べばいいか?これには答えはない。

それこそそのタイミングが一致しなければ、難しい。

僕も何人かの先輩には、あだ名もしくはちゃん付で呼ばせてもらってる先輩がいる。

初めて、呼ばせてもらった時はドキドキしたものだ。

怒られるのではないか・・・・など思いながらチャレンジした。

ニコッとしてただいた瞬間は忘れることができない。

認めてもらえた瞬間だ。


逆に、後輩が親しみを持って呼んでくることがある。

自分の経験を当てはめながら、ドキドキしてるなと思いながら、ニコッとする。

また自分はOKなのだが、呼んでこない後輩もいる。

まだまだ自分が壁を持っているのかと、反省することもある。


親しく呼び合えることは、先輩に対しても、後輩に対しても、どちらにしても、大きな壁が壊れた瞬間だ。

そんな関係ができる人達と、ドキドキしながら常に成長する人間関係を構築して行きたい。

2013年3月15日金曜日

兵站という言葉知ってますか?

兵站
「へいたん」と読みます。

先進国の中で、この意味が国民に知られていないのは日本ぐらいでしょう。

これは、軍事用語なのだが、自由主義社会における経済もしくは、企業(大小関係なく)を語る上において非常に大切な単語である。

そのパートによっては一番大事と言っても良い。

Appleの故スティーブ・ジョブズも口にほとんど出さなかったが最重要と位置付け経営戦略を立てた一人である。

ただ悲しいかな、日本人のほとんどはこの単語を知らない。

ラインとスタッフと言えばわかるかもしれない。しかし少しニュアンスは変わると思う。


ではわかりやすく、軍を用いてお話ししよう。

一昔前になってしまったが、自衛隊がイラクに派遣された。

先遣隊隊長は 現在ひげの佐藤正久参議院議員 一次隊隊長は陸上自衛隊番匠幸一郎陸将である。

撤収までの間、派遣隊員数は一万名弱に登った今までで一番大きな海外派遣活動である。

業務としては、給水 道路補修等後方支援活動で活躍をした。


最近では、東日本大震災での活躍が有名である。

がれき処理等の復旧活動に従事した

では、出動した隊員すべてが、その業務にあったたのか?

実はそうではない。本来の業務に携わったのは、出動した隊員の一部なのだ。
では、その他の隊員は何をしたのか?

本来の業務に就く隊員たちのバックアップである。

食事、洗濯、必要機材の補給等である。

本来業務に就く隊員たちが、フルに力を発揮できるように完璧なバックアップを行う。

このバックアップが兵站である。

兵站が完璧で初めて、完璧な任務を遂行できるのだ。


企業においても一緒である。

兵站がしっかりした会社でなければ、成長はあり得ない。

自分の会社の兵站が何なのか?

現場がしっかり成果を現すために完璧な兵站がそろっているのか?

現状における正しい兵站を作り上げなければ、企業として正しい成果は出ない。

だからこそ、兵站の重要性が大切なのだ。


日本人は、どうしても表に出てくる結果ばかりに注目するが、その裏側にある兵站こそが最重要なファクターになる。



2013年3月13日水曜日

母同伴

今は多いのでしょうか?

エッ?何のことって?

何のことやと思います?

とある合同会社説明会で弊社のブースにきた学生のことです。

母親に一緒に行ってと言っているのか?

私が一緒についていくと母親が言っているのか?

どっちでもいいんですけどね!

そんな人いらない。

私たちが望んでいるのは、自立した自分の意見をしっかりと言える我慢強い責任ある学生です。

企業のほとんどが望んでいる答えと一緒で申し訳ないんですけど、昨年の経済産業省のデータで、企業が一番新卒者に望む姿です。

かけ離れてますよねぇ。

もしも、もしもですよこれを読んでくれた母親なり、学生がいれば、バカな行動は慎みましょう。

と言うか、その時点で終わりですけどね。

親を見たら学生がわかるって言いますけど本当その通りと思う光景です。

悪いけどその子の人生はもう終わっていますね。その集大成が日本だなんて思いたくはない。

愚痴ではなく現実を見つめる経営者としてしっかりと考えなさいという問題提起です。


2013年3月11日月曜日

東日本大震災2年目 自分の記録

当日は、東京プリンスホテルにいた。


青年会議所 シニアクラブの役員会が始まる直前だった。

一回目の大きな揺れ!!   シャンデリアが大きく揺れる。

30秒ぐらいして、みんなが会場を出て行く。

玄関を出でて、東京タワーを見上げれば、先っちょが今まで見たことのないような揺れをしている。

少しして揺れが収まり、会場に戻る。

会議が始まるの再度の揺れ!!

今度はすぐに退室

当然ではあるが、役員会議は中止となり、ホテルロビーも騒然とした雰囲気に包まれる。


その後、雑踏の中で、みんなの様子を伺いながら、ホテルにチェックイン

幸いにも同ホテルを宿泊先としたていたので、苦労することなく、部屋には入れた。

テレビを点け、愕然となった。

発災後1時間半くらいが経過し、初めてテレビで東北、関東の現状を知る。

発災後1時間ぐらいで携帯電話が使いにくくなる。ツイッターは使える。

ツイッターを通じ、奈良のメンバーと連絡を取り当日を過ごした。


翌日は、高校の育友会の最終役員会・・・・いけるのだろうか?

ホテルから銀座まで徒歩で行き、当日の夕食を済ませた。

行き帰りの人の多さは尋常ではない。

コンビニに食品や飲み物はなくなり、より危機感をあおる


テレビを付けたまま就寝


夜中に、帰りの交通機関が気になり、ネットで検索

予約は、ANAであったが、飛ぶ可能性は0と見極め、新幹線を検索

0500から、オンラインを復活させるとの文字!!!帰れるのか?
 
見事に目が覚め、0503にオンライン接続・・・

なんと始発からの切符が発売されている。まさかと思いながら、購入!!!

0630位の切符が買えた。まずは第一段階通過!!


少しして、ふと気がつく、新幹線の切符は買えたが、ココは御成門

どうやって、東京駅もしくは品川駅に行けば良いのだ?

慌てて、荷造りをし、ホテルを飛び出した。

東京駅と品川駅どちらが近いんだ?   このままでは新幹線に間に合わない・・・・

切符は買えたが乗れないではないか・・・

タクシーもないのは解っていた・・・・

諦めながら、東京駅に徒歩で向かう。


その時だ!地下鉄 御成門駅の階段を降りていく人がいるのだ。

まさか?   動いているのか?

全く解らないまま、祈る気持ちで、後に続き階段を降りた。

地下道を行くのは、その人と俺だけ・・・

やはり動いてないのか・・・

改札まで来て、改札に電気が入っている。

改札通過!!!乗れる

ちゃんと地下鉄もやってきた。

動いてることに気がついてない人が多いのか

ガラガラだが確かに動いてる

大手町到着

これで勝ったようなもんだ。


新幹線ホームに向かう

途中みどりの窓口は人でごった返し、ネットで購入したことに安堵する。

30分以上はかかるくらいの列である。

さてココまで来たが、実際に動くのか・・・

アナウンスは、定刻発車と言っているが・・・・・

そして定刻・・・・動いた!!!


なんと発災後、約14時間で、新幹線は、西に向けて定刻通り出発した。(厳密には、その前の始発から動いているのでもう少し早いが・・・・)


そして、定刻通り京都に到着。

1000過ぎには役員会の会場である奈良ホテルに到着できた。

それも一番乗りで・・・

これが私の震災当日から翌日にかけての記録である。



ここ数日、震災関連の番組ばかりをしているが、僕はあんまり感心しない。


番組だけではなく、風化させないためにとか、記憶にとどめるためにモニュメントの作成とか言っているが、大切なのは、1人ひとりの心の持ちようではないのか・・・


今も当日の映像を見たくない人もいるだろう。話すらも聞きたくない人もいるはずだ。


風化させるかどうかは、1人1人の心の持ちようであり、日本国民全員が、悲惨さはよく解っている。


自分が当日どうしていたかをしっかり記憶し、その記憶から当時の震災の悲惨さを思い出せたらいいと感じている。




2年がったった、今日、自分の中で風化させないためにこのブログを書いた。

2013年3月9日土曜日

手に取ることのできない青

海のと空の青色

いつまでもいつまでも、誰もが手にできない青色である。

そんな言い方をすればいろんな色がるかもしれない。

朝焼け、夕焼け、真夜中の漆黒、月の白から茶褐色なんかもその一つだろう。

しかし、空と海の青だけは、いつでも目に入れることができる。曇りの日は無理ですけどね。

しかしこれらの色は、写真に写し取ることは出来ても、それをそのまま手に入れることは出来ない。

特に、海の青は触れることは出来るがすくい取ってしまうと無色になってしまう。



そう考えると何とも想像を豊かにする。

先人の画家たちは、手に入れることの出来ないものを、手に入れるために大金をはたき理想の色を追い求めたという。

今の社会、物があふれ、欲しいものが手に入る時代において、逆に人間の発想を枯渇にしているのかも知れない。

いい意味での欲望を追い求めたいものだ。


2013年3月7日木曜日

日本人は本当に謙虚なのか?

日本人は本当に謙虚なのか?

昔は多分そうだったのだと思う。

人よりも前に出ない姿に美を求めるところがあったのだろう。

それが相手の思いやりにつながり、お互い様の精神の中で、他国では見ることの出来ない人間関係を形成していったのかも知れない。

昔はそれが本心で行動した姿だったのだろう。


では今はどうか?

今も至る所で、人を先にやり、自分は後からという姿勢がよく見られる。

着席の時の上座下座、入り口に入るときの前後、いかなる時も上下が存在するときには、必ず、そんなやりとりが見られる。

当然今の現在においても、昔のように本当の謙虚という意味から、譲る姿勢する人もいるだろう。が、多くの人達は、少し昔とは意味が変わっては来ていないのか?

謙虚な姿勢を見せとかないと、がめついと思われてしまう。

上に座ってしまうと偉そうと思われてしまう。

などというように、同じ行動を取っていても頭の中は自分の保身から生まれた謙虚さであって、本来の姿ではない。

そんな姿でもかまわないのだろうか?

どんどん、本心とは違う自分の姿を作っていき、自分の本当の姿を自分自身も見失ってしまうのではないか。

なんかそんな姿を見てふと嫌になった。

同じように、日本人は、自分の成功を自慢したがらない。これも昔は、自分の成功を自慢しない武士道的考えがあり、それも日本人の美学のように思われてきた。

では今はいかがなものか?

本当に成功した人って、自分の成功体験を堂々としゃべってません?

それを見て、あの人やらしいひとやわぁとか思うのだろうか?

日本は、戦後、どんどんと欧米化がすすみ、生活スタイルだけではなく、考え方も大きく変わってきたように思う。

逆に成功事例を堂々としゃべってもらう方がより自然に感じるのは自分だけか?

確かに、他の国にはない日本特有に美学は多くある。

その美しさは、文化であり確実に残していかなければならない。

しかし、姿だけを残し、うちに秘めたるものが本来の意味とかけ離れるのであれば、それは文化をまもるにはならないのでは無いか?

形だけでも良いのだろうか?

僕自身答えは出ているのだが、確固たる確信が持てないまま・・・だらだら書いてます。

2013年3月5日火曜日

今を楽しむ人生

とある漫画で、皺くちゃなお年寄りに中年男性が問いかけた。

「爺さん人生いつが一番楽しかった?」と

その爺さんは答えた。

「決まってるじゃないか!今じゃよ」


果たして何人の方が今が楽しいと答えられるか?

勘違いしないで欲しい。

今が楽しいと答えた人が全員、この爺さんの訳ではない。

あくまでも自分で今が楽しくなるように努力している人が対象である。

偶然自分の力ではなく人の力で楽しいと感じてる人がいれば残念ながらそれは楽しいとは言えないし、もし楽しくても一過性のもので終わってしまう。

この爺さんがいう楽しい自分は、今までの自分の努力の積み重ねであり、その一歩一歩をきちんと確認し踏みしめ記憶に残してるからこそ、今が楽しいと言えるのではないか?

過去のお話をした時、苦労したこと失敗したことばかりをいう人がいう。本当にその記憶しかないのだろうか?
確かに失敗は成功への着実な一歩となるが、なぜ成功したお話をしないのだろう?

日本人特有の謙虚さだろうか!

このお話はまたいずれ・・・・・

棺桶に足を踏み入れる直前まで人生最高の楽しみを楽しみたいと思う。

そんな人生をおくらないと、折角頂いた一度っきりの人生もったいな過ぎると思う



2013年3月3日日曜日

人との別れ

出会いがあれば必ず別れがくる。

別れがない二人にも必ず、死という別れがくる。

別れは確かに悲しいものである。

また別れの理由も様々で、死 距離 考え方 思想 etc といろいろあるだろう。

その理由によっては、悲しくもなり、時には、自分にとってプラスに転じる時もある。

実は、人との別れは、そういうものである。


すべてが悲しいわけじゃない。

別れはすべて悲しいものと思われがちだが、実はそうではない。

もしかすると悲しい別れの方が少ないのかもしれない。

個人的に感情として悲しいのはわかるが客観的に見た時、その別れは、その人にとって、変化を表す行動の一つであったり、自分の中に無意識にある弊害との決別の一つである可能性が大きい。

少なくとも私はそのように捉えている。別れとは自分の成長に合わせた行動の表れであることが多い。

今までも、多くの別れを経験してきた。

自分から離れた人。自分から離れて行った人。

それぞれあるが、人の成長にとって、その別れは必然であり、決して偶然ではないと考える。

人間は経験を積み重ね、成長をする。

それにあわせて考え方も、日々少しづつではあるが、変化しているのだ。

お互い変化をするもの同士、いづれベクトルが合わなくなりそれは別れへと繋がる。


特に、経営者と従業員のベクトルが会わなければ、それは確実に別れである。

逆に別れなければ、双方共に不幸に繋がる。

経営者側から見れば、他の従業員の士気に影響するし、従業員側から見れば、やりがいを満足できないストレスに繋がる。


また、別れによって学ぶところも多い。

今の自分を冷静に見つめ、修正をかけるいいタイミングである。

なぜその別れがあったのか?それは必ず自分のプラスに繋がるはずである。

別れは、新しい出会いにも繋がる。

が、確かに別れは悲しいものだ。大いに悲しめばいい。

ただいつまでも悲しんでいても仕方が無い。別れとは、自分の成長の表れだ。

ちょっと極論?






2013年3月2日土曜日

自由と個性の尊重の履き違え

20年くらい前から子供の教育に自由と個性を主張する親が増えてきた。
自由に生き生きと育てることにより個性を引き出し、それを伸ばす。

確かに間違ってはいないでしょう

でもね、本当にそれで個性って引き出せてるのでしょうか?

自由という言葉の裏側には、一つ約束事があります。

それは、ルールを守るということです。

人が生きて上で最低限守らなければならないルールがあるのです。

ではそれは誰が教えるのか?

自由と個性を履き違えて主張する親に限って、この答えは、学校であったり社会というように世間が教えてくれると思っています。

わかる人はわかりますよね。

世間なんか教えてくれません。

間違いなく親が教えないといけないのです。

ルールがない自由で育った子供の結末は明らかです。

当然全員とは言いませんが、成功する可能性は極めて低くなります。

ここでもこのような親はこう言います。

「社会でどのように生きるかは本人次第」

これこそ問題にならない育児放棄、子供に対する目に見えない虐待だと思いませんか?

そんな子供達が世に出てきています。少し話をすれば、どのように育ってきたか明らかです。

そしてそんな子達に個性はありません。

個性尊重と言いながら、親は、周りの目を気にしながら生活してますから、目立たないようにその他大勢の一員として育ててしまいます。

目立たないようにしつけることが生きて行く上のルール、それをしつけと勘違いしてます。

目立たないならそれは個性とは言いません。

親にとっての個性だけで、世間に対する個性には全然つながっていません。


これは親と子に限ってお話ではありません。

企業においても一緒で、同業同士であれば個性を出さなければ、差別化は生まれません。

しかし、個性を出すと、それは場合によっては異端児と言われてしまいます。

それを嫌い、結局は個性を出さないまま、努力をし続け、頑張っているがしんどいままである会社が多いです。

個性を発揮し、差別化を持ち、同業の中から抜け出すためには、異端児を怖がっていては、成功はあり得ないのです。

差別化から成功するためにはまずはいいも悪いも異端児になることです。

それこそが個人もしくは企業の個性と言えるのではないでしょうか?

2013年3月1日金曜日

後回しのツケ 誰でも知ってる話 

嫌なことの対応
気が乗らない仕事
めんどくさい処理

皆さんは、こんなのどうしてます?

多くの方は、そんなことは先に済ませると仰るんでしょうねぇ。

確かにそれが一番なのはわかるんです。

でもね、どうしても後回しになってしまう。

早く処理してしまえば、気が楽になる。楽しくなる。解るんですよ。実際経験もあります。

でもやっぱりダメなんです。

後回しになり、 時間が迫ってくる精神的苦痛。それでもまだ動かない。

決してそれを楽しんでるわけではないのに・・・・

多分、同じような方もたくさんおられると思う

そこから抜け出せた方も多いんでしょうねぇ。

どうやって克服されました?

今も抱えてるのあります。ドキドキしながらブログを書く。

そんな時間あればその処理に時間を使え!

はぁい