2013年2月28日木曜日

財産は人 お金の使い方について一考

お金はほっておけば増えも減りもしない。

人は知識、経験を与えれば自ら勝手に何倍も大きく成長する


ただ怖いのは、お金は裏切らないが、人は裏切る可能性がある。人は意思を持っているからである。

でもだからこそ楽しいのだ!


お金をため込んでも仕方ない。

お金を人の成長に使ってこそ生きたものになると自分は考える。

そのためにはまず人を信じないとダメだ。

人を信じ、自分の素顔を見せ、そしてその人にどんどん投資をしてこそ、活きたお金の使い方だと思う。

人に投資をする。

お金は人の中に経験という形に変えて貯めるものだと信じる。

ゆえに人こそ財産

北海道の大先輩の社長から学んだことである。

2013年2月27日水曜日

慣れって恐ろしい 水中で思う・・・

ダイビングを初めて、およそ15年になる。


初めてのダイビングの感想はココでは書かないでおく。怖かった記憶が残ってる・・・・

ただ、回数を重ね、なれてきた頃から、感動が前面に出てきた。

この辺は男性と女性の違いか? 女性は一発目に感動「お魚きれい〜!!」 男性は「ほー!」という感じか慎重のようだ

そして、感動が出てくる。

自分の場合は、魚に感動するより、地形や水中で数十分居てるダイビングというものそのものに感動したことを覚えている。

そして、人間はいかにちっぽけなものかと感じたものだ。

陸上では偉そうにすべてを知っているかのように振る舞う人間も、所詮、地球の多くを占める海の中のことは何も知らない。

知識はあっても、生活が出来ないのだから手中の現実を知る事なんて出来ない。人間にとっては、水中は宇宙と何も変わらない。

そんなことを考えながら潜っていた。

当然、陸上の現実を考えることなんて全くない。

現実逃避という言葉がピッタリとあう時間だ。

そこから数年は、そんな感覚に包まれながらダイビングを楽しんだ。

ところが、ふと、気がつけば、水中で気分が乗っていない自分がいる。

ダイビングに飽きてきたのかと感じたものだ。

そうではない。

水中で陸上の現実を考えているのだ。

「あー明日は、あの仕事のしないといけない」

「昨日の発現はどのように感じているだろうか?」

といった具合である。

それに気がついたとき、愕然としたものだ。

はじめた頃の感動はもう味わえないのか?

いろいろ考えたものだ。

ではなぜなのか?

結局は、水中に慣れ、ゆとりが出てきたというのが答えだ。

慣れてしまえば、もう最初の自分に戻れない。初心者のことの感動はもう味わえない。

今の現状でも、感動できるフィールドを求め続けるしかない。

これも成長か・・・・・

慣れって怖い・・・・








2013年2月25日月曜日

とあるオフィスでの光景 

よく、「言った!」  「聞いてない!!」の喧嘩を耳にする。

本当に良く耳にする。確かに僕も実際にやったことがある。

どちらの立場でもやったことがある。


次のニュアンスで、

「あのとき解ったって言ってましたよ」

「えーーー?」

というのも耳にする。


さて、これ、どちらの人が正しいと思います?


まぁ、中身が解らないから、どっちが正しいとは言えないんですが、実はどちらも自分の主張であって正しくはないんです。

物理的なことだけを見ると、本当に言っていれば、「言った!」人は正しいでしょうし、言ったと思い込んでるだけであれば、「聞いてない!!」の人が正しいです。


ここでは、

A 「言った!」

B 「言ってない!!」

A 「あのとき解ったって言ってましたよ」

B 「えーーー?」

のやりとりについて書いてみる。

このやりとりを聞くと、Aが正しくてBが忘れてるから悪いのですが、考えようによっては先ほども言ったように、双方間違いなんです。

なぜか?

Aは、伝えたからそれで良いというところで止まっています。

Bは、理解をしたというところで止まっています。

お互いが、自分の行動で本来行かなければならないところまで行かずに立ち止まっている証拠なんですよ。


理解をするのは少しの頭脳があれば可能です。

しかし、理解をすると言うことは、行動を起こすと言うことに等しいはずです。

逆に言うと、行動に移せてなければ、それは理解したと言うことにはなりません。

ここで、Bは理解をしただけで行動に移してないがために、理解した事まで忘れてしまっているわけです。


では、なぜAは駄目なのか?

伝えたと言うことで止まるのではなく、理解してくれたかどうかのチェックを怠っています。

言い換えると、その人が行動を起こしているかどうか、早い時期のチェックがなされていないのです。


行動を起こしてくれてなければ、それは伝えたことにならず、行動を起こさなければ、理解したことにはならないのです。


少々乱暴な意見ですが・・・


良く企業の中で見られるちょっとしたすれ違いの光景です・・・・・

どっちもどっち・・・・・・・ですよね











理想と現実のギャップ

理想は常に高く持たなければならない。

確かにその通りだ。
が、それだけを考えていていいのか?

今、置かれている現実と、理想のギャップがおおきすぎれば・・・それは関係ないことなのだろうか?

ギャップがあり過ぎて、所詮理想ですからと洟から諦めていないか?



人が成長するためには、自分が自ら掲げる理想は大切である。

確かに大きな夢、理想を持つことは大切であるが、その理想を掲げただけでは、なかなか前進できない。

そこへたどりつくまでの計画をしっかりと立てることができなければ、絵に描いた餅になる。

夢こそ高い理想で良いが、そこにたどり着く計画はより現実なものにしなければならない。

その現実の一歩一歩が達成された時、より楽しい喜びとなり、その楽しみの積み重ねが夢にたどり着くのだ。


大切なのは、理想を掲げるだけではなく、途中経過の計画をしっかりと作り込むことが大切である。

それが、理想と現実のギャップを埋め、理想=現実を現実のものとする。


そしてたどり着いた時、人は人間として大きな成長を遂げている。

真心とは

「お客さん第一」 どの業界においても、当然とされるフレーズである。


常に顧客のことを考え、親身になってお客様の要望に応える。自由主義社会において、原点でなければならない。

ただ、往々にして、押しつけになっていることが良くある。

客の希望、要求を勝手に決めつけてしまっている事がある。そのベースになるのが、自分の要求である。

決して自分=他人ではない。

しかし、良く陥る落とし穴だ。

奈良に、注文住宅を主とする、とある工務店がある。まだ40代の若い経営者(実は面識はない)であるが、全国的にも有名な社長らしい。

仕事は次から次へと入ってきているらしい。半年待ち1年待ちが恒常化している。

なぜなのか?

彼はとある大手ハウスメーカーに勤めていた。
しかし会社の方針が、根本で客側の目線でないことに疑問を持ち、退社をする。そして、大工をしていた父の元に入った。

彼が、家に戻ってから、やったことは、数多くあるだろうが、大きくは二つ!

一つは会社の方針を明確に打ち出した。
二つ目は、お客さん第一とはどういうことなのかを追求した。

一つ目の方針は、若年層(30代夫婦)に特化したことだ。ターゲットを絞ることで、顧客に対する対応に力を注ぎ、経営的にも効率化を図った。

二つ目のお客様第一の追求について、客の要求を見抜くことに専念している。

「言葉のないところに真実がある」

客の本来の要求は何なのかをしっかりと見極め、工務店側からの押しつけにならない対応の良さである。けっして、至れり尽くせりではないはずである。

営業をせずに客が続く・・・・・すべては口コミなのだ。


以上のお話は、実は目新しいことではない。書いてみると当たり前のことなのだ。
ところがこれが出来ない。人間は往々にして、根本で自分のポジションをまもろうとする。
表向きは、お客第一かも知れないが、一番根っこのところで、自分のことを考えている。

売り上げや利益は、客には一切関係のない話なのだ。
だがどうしても根っこでそれを考える経営者が多い。だから最後には押しつけの「お客さん第一」になってしまう。
あくまでも、お客さん第一の積み重ねが「売り上げ」であり「利益」であるはずである。

この工務店の社長は、それに気づいたからこそ現状の状態を作り出すことが出来たのではないかと思う。

真心・・・己のことを考えるのではなく、自分を切り離し、真に相手を考えて接する心

もしかしたら理想郷かも・・・

某工務店の社長・・・勝手に書いてごめんなさいね










2013年2月13日水曜日

サラブレットは勝ったことを知っているのか?

ANAの機内誌にこんな記事があった。

競馬の勝ち馬は自分が勝った事を知っているか?と言う記事である。

自分は競馬を全くしないので、そんなことを考えたこともなかったが、案外昔から議論されてる内容らしい。

全てということではないのだろうが勝ち馬は機嫌がいいらしいのだ。

気性の荒い馬でも勝った後は素直に騎手の言うことを聞くという。


昨年の天皇賞で気性の荒い馬が勝ったらしい。

天皇皇后両陛下ご観戦の中、ウイニングラン終了後、陛下の前で、外国人騎手は下馬、脱帽の上、芝に膝をつき最高位の礼を表現した。

そのときも、勝ち馬は気性を露わにする事なく、じっと騎手に従っていたという。

勝ったということを馬自身も理解し嬉しさを表現しているように見える。


しかし専門家に言わせるとそんなはずはないという。

そりゃそうだ。

何馬身も差をつけ勝たのであればまだしも、ハナ差や写真判定での勝ちが馬にわかるはずがない。

ではなぜ、馬は穏やかに嬉しそうに機嫌がいいのか?

馬は協調性が非常に高い動物らしい。

自分に騎乗している人間が喜んでいることを感じ、馬自身も喜んでいるというのだ。

人間を細かな感情を馬は感じ取っているらしい。

そう考えれば、当然馬の体調もあるだろうが、騎手の心の表れが馬なのかもしれない。

馬に限らずかもしれないが、何とも、素直に理解し、古くからの人間と動物の関係を垣間見ることができるような記事であった。


馬と人を一緒にしてはならないが、喜びを感じている人の周りは華やかさがあり、周りの人もそれの影響でか楽しくしているように感じる。

また実際、その場に位合わせれば楽しいものだ。当然その逆もある。

人は言動だけではなく、個人の感情でも周りに大きない影響を及ぼしている。

悪い感情までも周りに与える影響は大きい。

毎回同じ失敗を繰り返しているように思う。反省。そんなことを雲一つない東京 高田馬場で思う。

2013年2月2日土曜日

見逃す勿体なさ 他人の意見より自分の本質


FBに投稿されていたものを転載しました。
私たちは、「美しいもの」だけでは無く、素晴らしいもの、価値のあるもの、見逃してはいけないもののほとんどを気づかずに通り越しているのではないか?

ここから転載

「ある寒い1月の朝、一人の男がワシントンD.C.の駅で座りながらバイオリンを弾き始めました。彼はバッハの曲を1時間程演奏しました。その時間帯は通勤ラッシュだったため、約1100人がその男の前を通りました。

3分後、ある中年の男はバイオリンを弾いている人がいると気づき、足を止めました。しかし、結局止まったのはほんの僅かな時間で、数秒後にはその場を離れました。

1分後、バイオリニストはやっとお金を稼ぐことができました。ある女性がケースに1ドル札を投げ入れましたが、彼女は止まることなく歩き続けました。

少しした後、壁に寄りかかって彼の音楽を聴く者が現れましたが、腕時計を見るとすぐに歩き始めました。会社に遅刻しそうだったのです。

一番彼の音楽が気になったのは、3歳の男の子でした。彼のお母さんは急いでいて、男の子の腕を強く引っ張りました。それでも男の子はバイオリニストを聞こうと足を止めます。お母さんは男の子の背中を強く押し、無理やり歩かせました。それでも男の子はずっと後ろのバイオリニストを見ながら去って行きました。他の子供も同様でしたが、親は全員例外なく止まることなくその場を去りました。

彼が演奏した一時間内で、足を止めて彼のバイオリンを聞いたのはたった6人でした。お金を入れてくれたのは20人程でしたが、止まった人は誰もいませんでした。稼いだお金はたったの32ドル。彼が演奏をやめ、駅が沈黙に包まれた時、気付いた人は誰一人いません。拍手はなく、このバイオリニストを認める人はいなかったのです。

バイオリニストの名前はジョシュア・ベル。彼は世界で最も才能のあるミュージシャンの一人です。彼はたった今、歴史に残る傑作を演奏したのです。それも3億円のバイオリンを使って。

彼の駅での演奏の二日前、彼のボストンでのコンサートのチケットは、一枚一万円するものの全て売り切れました。

これは実際にあった話です。ジョシュア・ベルが素性を明かさず行ったこの演奏は、人々の視覚・嗜好・優先順位を研究するための実験としてワシントン・ポスト紙によって行われました。私たちは本当に「美しさ」を理解しているのだろうか?それをちゃんと足を止めて味わっているのだろうか?予想していない状況でも、才能を感じ取ることはできるのだろうか?

一つ結論として言えるのは、

もし私達は世界で最も才能のあるミュージシャンが、歴史上一番の傑作を演奏してさえ気付かないのであれば、私達は他にもきっと多くの「美しいもの」を見過ごしているのではないか?」

以上までが転載

人間の思い込みの浅はかさと、本質の見極めの大切さを語っているのだが、今の現代人にとって、本質の見極めよりも、他人がどう感じているか?それと同じ感じ方をしているか?の方が大事なのかも知れない。