2013年12月31日火曜日

2013年の振り返り

本当に激動の一年でした。
それぞれのパートに分けて今、今年を振り返っています。 
会社、業界、大学研究会、プライベート、全てにおいて良い意味でも、悪い意味でも激震が走った一年でした。
具体的には書きませんが、今日で、今年にけじめを付け、明日からのスタートダッシュに望める体制だけは作れたと思います。

全く新しい事に望むのでは無く、今確信を持って進めていることを着実に、しかし、冒険心を持って前進させるのみです。

会社(ぶれることの無い経営者として)
業界(グローバルな目線で業界に携わる地域リーダーとして)
地域経済(地域経済浮揚のために必要なことを具体的に行動を起こす経済人として)
地域住民(仕事、プライベートを通じ、現社会を生きる奈良人として)

この4つの柱に
永遠に変わることのテーマ
「責任と覚悟 そしてそれに対する最大の努力」

を絡め、来年も大きく全国を走り回ります。

えっ?プライベート・・・当然それが一番大事でしょ。

僕は全てにプライベートを絡めて行動してます。だから楽しいんですよ。

皆さん今年はありがとうございました。 See you next year bye !!

2013年12月27日金曜日

人間関係は多種多様 

人間関係

それは人間にとって永遠に答えのないテーマかもしれない。

しかしそれは人間関係というものを真正面から考えた人にだけ与えられる特権であるのも事実だ。

普段人間は、意識をして人間関係を考えたりしない。

なにか問題が起こったり、ギクシャクした時にのみ、人間関係を引き合いに出してくる。

いわば問題解決の一つの要因としてのみ、浮上してくることが多いのだ。

それだけ人間関係というのは、重要視されていないことが多い。

でもそんなに簡単に片付けていいもんでもない。

社会で生きて行く上に置いて、他人との接触は必要不可欠であり、その時点で人間関係の問題は始まってしまう。

よりうまく社会を生きていこうとすれば、人間関係に対する自分の考えをしっかり持っていなければ、不必要な摩擦を生むことになりかねない。


それでは全ての人間において同じような関係を持てば良いのか?

それは、NOだ!

絶対に全ての人との関係が同じで良いはずが無い。

では1人1人の人に対応すれば良いのか?

理想的にはそうであろうが、不可能に近いためそれも現実的ではない。


じゃぁ どうすれば良いのか?

実はそんなに難しくは無い

自分の置かれている人間関係をグループ分けすれば良いのだ。

家族、職場、友人 先輩 後輩 同輩 グループ分けも簡単でしょ

最初は大きなグループで良い できるならそれを細分化していけば良い

たとえば、家族と一口に言っても、親、兄弟 で二つに分かれる と言うような具合にである。

そして、それそれに対して、自分はどんな人間関係を構築しているのか、考えてみれば良い。

問題勃発以外で初めて人間関係を冷静に考える人がいるはずだ。

その答えが出たときに、客観的に果たしてそれで良いのかを考えれば良い。

分析をすれば、なんでも自分にとって正しい答えは自然と見えてくる。


ではあくまでも自分の私見の考えを書く。

これが正しいわけでは無い。僕が考える答えである。

僕は、身近な人間ほど、気を遣う関係を構築しないと考えている。

一番気を使うのが、家族である。

それも両親 兄弟、嫁、子供 の順である。

答えは単純で、切るに切れない関係であるのだから、ギクシャクしないように気を遣わないと全てがうまく行かなくなる。

人間とはわがままに生き物である。常に顔を合わすもの同士が気を遣わないでうまく行くはずが無いという考えなのだ。

これが僕の人間関係の根本である。

故に距離がある人ほど、気を遣わなくて良いと言う結論だ

関係の遠い地人などは、駄目なら付き合わなくて良い考えている。


では職場の人達との関係はと言うと、これは、友人でも無く、家族でも無い 非常に高度な人間関係が必要になる。

一言で言うと「きっちり距離を置いて それぞれの立場を明確にして その上で信頼という糸で繋がっている関係」

これが解った上で、友人として付き合うなら良い。

でもたまに逆の人いてるよね。逆は大きな過ちを犯す

一度自分の人間関係を分析して答えを持ってみて!劇的に世界が変わるよ

自分の答えの中に一部行動が伴って今にものがあります。あしからず

2013年12月13日金曜日

些細な時間の集大成

人にはそれぞれ時間に対する考え方が違う。

決して時間という概念の意味を言っているのではない。

使い方に対して述べて見たい。


あくまでも私見である。

時間をうまく使える人、下手な人・・・・それぞれ多く見かける。

あなたはどちらだと思いますか?


僕は自分でうまいとは思っていない。

なぜなら頭で考える通りのことが実行できていないからである。


ただ、常に実行していることは一つだけある。

せっかちと思われるかもしれないが、時間の中に極力サバを入れないようにしている。

オンタイムとオンタイムの間に潜む時間のサバを極力抑える努力である。

移動手段も色々考え最短の時間で移動できるように考える。

たとえそれで歩行などによる体力的苦痛が増えてもである。

オンタイムとオンタイムの間の時間を、有効に使える人はいいが、僕にはどうしても集中することができずに、全てが中途半端に終わり、結局、全く得るものがないまま終わってしまう。

そこで、オンタイムとオンタイムの間を極力少なくする努力である。

先方の都合に合わせなければならない時はしようがないが、自分の都合に合わせてもらえる時は、全ての要件を、短時間の中に詰め込むのである。

当然最小限の休憩は入れるが・・・・

そうすることにより、纏まった時間が後ろに現れる。本来うまく使えることができなかった時間が一つの塊になるのだ。

これで一つの用件をそこに入れることができる。

こんなこと誰でもやってるでしょ でもね、意識的にやってごらん。驚くほど時間って無駄にしてることに気付くよ。

そして精神的余裕がうまれる。

えっ?逆じゃ無いのと思われるかもしれないが、そんなことはない。

一気にやり遂げた後の大きな時間の塊で精神的余裕を持った方が思いっきりリラックスできるし、オンタイムに起こるミスも実は少なくて済む。

よく、それだけ動き回って、しんどく無いのと言われるが、僕にとっては至って普通・・・・どころか、他の人よりも数倍遊んでいるはずである。

まとまった時間で、仕事してることは僕の場合はほとんどないですからね。

まとめた時間で、休憩したり、遊んだり、自分の時間に使っている。

そこまで、詰めて働いても効率上がるはずがないですから!! 

頭切り替えのために、多くの遊びの時間は必要なんです。

と常に自分に言い聞かせている。

働き詰めで、忙しいと言ってる人に、本来の結果残せてる人は誰もいないですからね。

これって、制約理論におけるクリティカルチェーンプロジェクトマネージメント、そのまんまでしょ。

当然これだけでは無理ですよ。時間を詰める時にはいろんなルールを考えとかないと一気に効率は悪くなりますからね。ここからは企業秘密・・・ふふふ

2013年11月12日火曜日

「東大生が直面する悩み」 とある雑誌の記事から

この記事は決して、東大生に限ったことでは無いと思う。優秀な大学に進学した学生はみんなこの可能性を持っていると思う。

書かれた先生が東京大学大学院理学系研究科の植田教授であるから、東大生とされている。

さてそれはどのような悩みなのか?

入学して、少し立ってからや、在学中には元気だった学生が社会や大学院に進んだとたんに、大きな壁にぶち当たってしまうと言う。そして、挫折してしまうと言う。そんながくせいが、近年、急増しているという。

その悩みとは?その壁とは何なのか?

「評価のルールが突然変わる」

と言う至ってシンプルな悩みである。

大学に入るまでの評価基準は、「勉強」である。

答えが決まっている問題を以下に効率よく得かと言うことが評価の基準である。
物心がついてから、「成績が良い=優秀」という物差しで評価され続けてきたので、学生達はそれが人生の成功の物差しであるかのように錯覚に陥ってしまう。

しかし、大学院や社会は、そんな物差しで評価などしていない。

大学院は、自らが問題を見つけ、創造的に解決できない限り博士号は取れません。社会においても自分で課題を見つけ自らが考え解決していくことが成功の基本ルールです。何をしたら良いか乗しに確認をとった時点で指示待ち族となり成功者の道は歩めません。

このように、大学生までの評価基準と、卒業してからの基準が大きく変わることが、壁にぶち当たり悩み挫折する方程式だと先生はといている。

これは、実は、僕自身が、大学を卒業し、シャープ(株)に入社したときの当時の佐伯社長が入社式の中で述べられた言葉と全く一緒なのだ。

国立一期校の生徒達に、「君たちは今まで挫折というものを知らない。それだけ高校生までの物差しで成功を収めてきた証拠である。しかしこれからは物差しが完全に変わる。頭を切り換えない限り、君たちに成功はない」とはっきり仰った。ちなみに、その他卒の学生達には「君たちは、心配する必要が無い。いろんな失敗や挫折、成功を繰り返し、学生時代は、あまり勉強もせず、アルバイトという名目で、それなりに社会も知っている。大丈夫である」褒められてるとは思わないが、この言葉が深く心に刻まれ、気分が楽になった。

確かにここに書かれていることが全てではないし、全員が当てはまるものでもない。また等で異性以外でも同じような挫折を繰り返しているものもいる。

自分が、役30年間社会人を経験して言えることは、急激に、そのような若者が増えてきているということだ。その背景には、高度成長期に、親からそのような教育を受けてきた子供達が疑いもなく、同じ教育を今の子供達にし、社会もそれが正しいかのように認めてしまっているからに過ぎない。

人間は高度に見えるが実は単純

あなたは同じ失敗を繰り返したことがあるだろうか?
ない人はいないはずである。

自分一人にかかる問題の失敗なんかは本当に多々あることだろう。

当然それだけではなく、他人を巻き込んでの失敗も数えたら切りが無い。

ビジネスにおける致命傷に近い失敗も僕は幾つかある。

そんな重大なことであるにもかかわらず、また同じ失敗を繰り返してしまう。


あなたは、そんな失敗を起こした時、または失敗を繰り返した時、どう考える?

もう絶対同じ失敗は繰り返さないぞ。と心に誓うはずである。

しかし、同じ失敗を繰り返さないための、防御策を講じたことはあるだろうか?

実はほとんどの人がそのようなことは考えるが、思いつかないために実行で来ていないのだ。


なぜ、思いつかないのか? 

それは失敗した事柄を中心に考え、そこから防御策を講じようとするから答えが出ないのだ。

必要なのは、失敗した事柄を掘り下げることはでなく、人間という動物が失敗を起こしたと考えればいいのだ。

失敗した内容なんてこの際どうでもいい。

人間は高度に物事を考え、行動を起こすことができる動物である。

だからどうしても、複雑に物事を考えがちなのだ。

事を起こした内容が重要であればあるほど、それは高度なことだから失敗をしたと判断してしまう。

だから防御策も高度なんだと勝手に考え、高度な中で思考してしまう。


実は高度な思考と行動ができる人間も実は非常に単純な動物なのである。
ということをまず認識することが大切である。

弊社の現場で、こんなことが起こった。

今は当たり前のことであるが、現場内での喫煙は、所定の場所でするようにと現場監督が、朝礼で注意を喚起した。

なかなか実行されず、毎朝それを繰り返した。

忍耐強く言い続けることにより、所定の場所以外で喫煙するものはいなくなった。

監督は、もう大丈夫と朝礼での喚起をやめた。

するとどうであろう。

一週間もしないうちにまた所定場所以外で喫煙がはじまってしまったのだ。

結局その監督は、現場が終了するまで、注意を促すことをやめなかった。

なぜこのようなことが起こったのか? 
それは、喫煙当事者に喫煙場所以外でタバコは吸わないという注意に対する防御策が講じられていないからであった。

この場合の防御策は、実は現場監督の朝礼での喚起にあったのだ。


今のこの例えは喫煙するという非常に簡単な事象で説明をしたが、実は高度になっても防御策は一緒なのだ。

防御策を講じていても、実は人間はそれを繰り返さない限り同じ過ちを起こしてしまうのだ。

また防御策をこうじていても、それがマンネリになってくると防御策としての効果は薄れまた同じ行動をとってしまう。


さてそれでは僕の防御策をご披露しよう。

非常に単純である。

毎日必ず、行う行動の中に防護策を思い出すサインを組み込めばいいのだ。


例えば、毎日顔を洗う洗面台の鏡に、今までにはないシールを貼る。と言ったようなことである。

指輪のように身につけるものならなお良い。

今までに無かったところに変化をつけることにより、思い出させるというやり方である。
そしてそれがマンネリになってきたら、別のものに置き換えれないい。
必ず一日一回は、目にしたり触れたりするところに、変化のあるものを存在させるだけで、人間は忘れずに済むのである。

僕の周りにはそんなものばかりであるが・・・・悲しい・・・・・


2013年10月22日火曜日

付き合える相手はどこまでの範囲か?

人間は、幼稚園に入った瞬間から、死ぬまで集団生活の中で生きて行く。現在は保育園が数の幅を利かせ0歳保育とかいうのまであるようなので一概には言い切れないが、物心がつき、自立して自分の意思で行動を起こし出した頃と考えれば良いか?

まぁ、日本人のほぼ100%に近い子供達は小学校に入学するので、別にそれからでも良い話をダラダラ書いてみようと思う。

さて、冒頭でも書いたように、無人島で生活でもしない限り、人間は集団生活の中で一生を終える。

一言で言ってしまえばどってことの無い話である。

しかし人間にはいろんな意味で、多くのタイプがある。思考的分類 行動的分類 思想的分類 生活的分類・・・・・たぶんあげ出せば切りが無いだろう

人間は、この無数にあるタイプの人間と付き合いきれるのだろうか? 

それはたぶん無理である。

というか、殆どのタイプの人間と付き合うことができないのでは無いだろうか!

学生時代のクラスや 社会人になっての会社や配属部署などはそんなタイプを考慮して配置などしていない。

あらゆるタイプがごちゃっと集められている。

当然、それを意識することなく、学生生活を送ったり 社会人として目的達成のプロジェクトを遂行していく。

それはそれで学び遂行できるであろうが、最大の成果を生むのは、そんな状態ではないはずである。

学生時代の学びは、逆にタイプに分けない方が学びも大きく人間の幅を広げるからよしとしても、社会人としてはいかがなものであろうか?

入社試験などはもしかしたら、ある程度のタイプのふるいをかけているのかも知れない。

ビジネスにおいても、チーム内のタイプのバランスで、進捗がはかどったり思いも寄らない結果が出たりする場合がある。
しかし、そのチームで成功したからといって、他のプロジェクトが同じチームで成功するとは限らないのだ。
物事に対する自分の適材適所があるように、人においても自分の適材適所がある。

友だち付き合いはできても、ビジネスは無理な人
ビジネスはできても一緒にプライベートを過ごすことができない人
ハナから完全に拒否してしまう人
逆に何でも一緒にできる人
プラスとマイナスの二極だけではなく、それぞれにアナログ的レベルがあるのだから、人の付き合いというのは本当に複雑怪奇である。デモだから面白い。

良いのか悪いのは別として、自分が付き合える人間とは?

自分が好きとなる人とは?

逆にどんな人に好いて貰いたいか?

どんな人に自分を買って貰いたいか?

などをコッソリ考えてみるのも自分を知る上で大切なことである。

リアルにそれを表現すると、つまはじきになる可能性があるが・・・・



2013年9月21日土曜日

地球に対する人間のエゴ

私たちは、本来自然に生かされるべき動物であったはずです。

自分たちの生は自然に任せるしかない動物なのです。

しかし、他の動物とは違い、知性を持ち、それをベースとして行動を起こす唯一の動物となってしまいました。

がために、人間のエゴが、自分たちのいい様に自然をコントロールし始めたのです。

勝てるはずもない自然を敵にまわして!

ある意味、社会資本整備とは、自然に打ち勝ち人間が暮らしやすい環境を整えるという人間のエゴから生まれてきたものです。

では、自然に任せるという本来の動物に戻れるかというともう後戻りはできません。

自然の脅威が増すに連れてそれに打ち勝つ社会資本整備が必要になります。

前政権では、「コンクリートから人へ」という馬鹿げた政策を取りました。

確かに社会保障も必要であることは間違いありません。

が、地球という自然を私たちは敵に回してる以上、それに打ち勝つ努力をしない限り、社会保障の議論など、無意味なものになってしまいます。

最近のゲリラ豪雨も台風時の風雨も昔に比べ比較にならないほど激しいものになってきています。

これも人間が作り出した温暖化の影響もあるでしょう。

人間と地球・・・・どちらが勝つかなんて明らかであるにもかかわらず、絶対勝つことのない、攻撃すればするほど報復をする人の最大の敵である地球を相手に打ち勝つため、地球上で唯一孤独な人間が延命作業をしているように思いませんか?

もう社会資本整備をやめて自然に自分の命を委ねてみてはどうでしょう。

というような議論が出てきても良いくらい毎年、地球の怒りに人間が犠牲になっている。

地球に打ち勝つ社会資本整備はないのだが、もう後戻りはできない。

一人の命を守るために社会資本整備は永遠と続く。

2013年9月10日火曜日

社会人としての危機管理の無さ

数日前、NHKの朝のニュースでdocomoが、iPhoneを販売するという報道があった。

流石に僕もそのニュースを信用した。
時期が時期だけに信憑性が高いと判断したからなのだが・・・

ところが、当のdocomoからは、一切そんな発表はしていないとの発表!

皆さんも覚えておられるでしょ

日本経済新聞が一番最初にすっぱ抜いたとかあとでいろんな情報は流れてきた。

docomoからiPhone

確かにビッグニュースである。

しかしこのニュースの裏に、日本の現在の象徴する実態が見えてくる。


日本人の情報に関する危機管理のなさだ。

メディアも、100%とは言わないが、ネタに信憑性がない限り記事にしたり報道したりすることはない。

何らかの信憑性があったからこそ記事にしたのだ。

そして最近、その情報の流出のほとんどは、内部からだという。

それがまだ確信犯ならしようがないとしても、ほとんどが、社員の危機管理のなさから情報が漏れているという。

自分たちの個人情報は必死に守ろうとするくせに、自分の働く場所である会社の情報については、まったくといっていいほど、意識が薄い。


まるであたかも自分でやった自慢話のように、飲み屋でそんな話を耳にしたこともある。

「こいつこんな事ここでしゃべっていいの?」と耳を疑ったものだ。


じつはこれは、情報が流出したという問題では済まない。


日本以外の各国企業は、情報の流出という危機管理のなさを一番嫌う。

これも覚えておられるかどうかわからないが、自衛隊の次期戦闘機購入問題でも、自衛官の極秘事項漏洩から、最新鋭機の購入を断られた経緯がある。これなんかはその典型だ。

私たちが住む奈良県でも、とある外資系ホテルの誘致で、水面下で極秘に進出計画を進めようとしていた某ホテルが、県職員から軽はずみな発言で、撤退した経緯がある。


民間レベルでいえばこれはもっと深刻な事態で数えきれないくらいあるだろうと思う。

島国だからなのだろうか? 単一国家単一民族だからだろうか。

国民全体に、危機管理の重要性は、他国に比べて薄い。

しかし、個人情報となると過剰に反応する。

それを考えると、単純に、過剰な個人主義、利己的考え方しかないところに行き着いてしまうが・・・・・

どんどんグローバル化が進む中で、日本人は、情報に関する危機管理を個人のベースで考えなければいづれ孤立することは目に見えている。

信用されないわけだから・・・・・

しっかりしようね日本人!       悲しい・・・・・・




この書き込みは決して、docomoがそうだったということではありません。

あしからず!

2013年9月9日月曜日

映画館という魔法の箱

最近はあまり見る機会が無くなったが、学生の頃は、映画を漁るように見ていた。

中学3年生で一年間に58本見た。今まで映画館で見た数は、200本は超えている。(最近は年2~3本程度であるが・・・)

当然、ロードショーだけではない。

最近はあまり見かけなくなった、2番館、3番館で、安い金額で古い映画を2本立て、3本立てでやっているのを観に行くのだ。

一日中、映画館にこもっていたこともしばしばあった。

当然1人で観に行く。

一日映画館にこもるのだ。

誰も付き合ってくれないし、変な奴と思われるのも嫌で、友達を誘うこともせず、1人でLマガジンのページをめくって検索していたものだ。

たぶんそんなことをしていたのは、親も知らないのではないだろうか。

どっぷりの恋愛物と、ホラーを覗いては、その当時すべてが対象だった。


なぜそんなにはまっていたのか、自分でもよく解らない。

今から考えれば、そのストーリーに入り込める自分が好きだったのかも知れない。


いまでこそ、自宅でDVDを借りてくれば、その物語は見ることが出来る。

しかし、そのストーリーに入ることは出来ない。

家の中という現実が、無意識に自分を没頭させてくれないのだ。

ある意味、映画館に足を運ぶと言うことは、そのストーリーの中に出向いていくという行為なのだ。

映画館の真っ暗がより没頭させてくれる。

まるで、近未来の映画などにあるバーチャル体験が出来る魔法の箱のような物である。

だから映画館で見るのと自宅で見るのは全く別モンに感じる。

いい映画ほど、映画館で見るべきである。

良くない映画も、映画館で見ると違う感じ方が出来るかも知れない

家でDVD見た後味と映画館で見た後味・・・・全然違うでしょ



さて、次は何を見ようか!!


一度、自分の人生を映画館で見てみたい!! ビックリするやろなぁ・・・・



2013年9月5日木曜日

決断の矛盾

前回、決断した以上は、決してやめないと書いた。

実はあれには、嘘がある。


実は、決断には、二つの決断がある。

一つは、前回も書いたように事を起こす決断である。

当然、決断をした時には、最後までやり切るという強い意思を持って望まなければならない。

当たり前のことである。


ではもう一つの決断とは何なのか?

覚悟を持ってやめるという決断である。

決断を、最後までやり切る責任と捉えてる人にとって、これはすごく矛盾したことになってしまう。

しかし、やめるという決断は存在する。

存在するどころか、実はこの辞めるという決断こそが非常に大事なのである。

事はいくらでも起こせる。

しかしその決断の責任から、それが失敗の方向に向いていることに気づいていても、「決断したのだから」という理由で辞めることができないことが非常に多い。

それが事業の足を引っ張り廃業に追い込まれているケースも多々ある。

このように事を起こす決断より、辞める決断の方が実は非常に重要であり、トータルとして良い方向に進む決断となるのだ。

決断=やり切る
ではない

決断=責任
であると思う。

言い換えれば、決断という言葉に、言葉以上の圧力を感じる必要はないのではないだろうか!

当然、「やり切る」と言う言葉より、「責任」という言葉の意味の方が重いのであるが・・・

2013年9月3日火曜日

決断の基準

決断を迫られた時、あなたは何をベースに判断しますか?

過去の経験でしょうか?

 未来への希望? 

その時の勢い?

色々ありますよね。


でもどれも正しい答えではないのですよね!

逆にいえば、すべてが正しい答えであるとも言えます。

僕は、しいて言うならば、その時の勢いが多いですね。仕事以外は・・・

仕事の時は、そうは行きません。

どちらかというと今までの自分の経験値に則って、攻撃的決断をします。

仕事以外は、本当に、その時の勢いが多いですね。


決断をしてから、行動を起こし、矛盾が生じたなら、決断した方向にぶれが出ない範囲で修正をかける。


決して辞めたりはしません。決断したんですから!!

そうすれば新しい希望の未来もよく見えてくるものなんですよ。


今日はどんな決断を下そうか!!!

2013年8月12日月曜日

成長の手法

今までにも書いたかもしれない。

人が成長するためには、新しい知識と経験が必要です。

成長するためのエネルギーは、この二つです。が、この二つだけでは、実は成長は望めません。

もう一つ大きなものが必要です。

それは、成長したいという強い願望です。

この願望がきっかけとなり、経験と知識が肥やしとなり人間は成長します。


人間は大人になり社会人となると、その職種などにより何らかの専門的知識と経験を持ちます。

そして、そしてより極めようと、高度な知識を持ち、経験を積みます。

高度に極めたいというのが願望です。


これはこれで素晴らしいことですし、極めなければならないでしょう。

しかし、ある一定のレベルに達すると、その成長の速度は著しく低下します。

これはすべてに言えることで、高度になればなるほど、新しく学ぶことが減って当然だからです。


ではここで、成長を諦めるべきなのでしょうか?

多くの人は、速度が鈍くなっても極めようと努力するでしょう。

それはそれで間違いでははありません。

しかし、時間対効果を考えれば極めて非効率であることは間違いありません。


実はもう一つ手法があるのです。

それは、専門以外のことにチャレンジをするということです。

物理的行動でなくて良いのですが、今までの脳を切り替えてしまうわけです。

そうすることにより、目線が変わり、見方が変わります。

見方が変われば、必ず、今まで見えていなかった領域が見えだし、新しい知識の習得なり、専門領域の深度、もしくは幅が広がり、より極めたことになるわけです。

確かにこの方法は、リスクが伴いますが、ほとんどの成功者は、この方法を無意識に実践しています。

これは、会社組織においても同じことが言えます。

弊社を例にあげて書いて見ましょう。

技術部門で、行き詰まった事象が発生しました。

そしてその解決のために、本部長以下数名の技術職員が集まり、解決策を見出そうとしています。

確か良い解決策が見出せるかもしれません。

しかしその確率は、非常に低いと言わざるおえません。

何故なら、技術のプロが作り出しシステム上の問題点を、同じメンバーで解決しようとしても、なかなか新しい意見は出てこないものです。

他メンバーをいれても、同じ技術職員であれば、あまり変化は望めません

ある意味完成されてるわけですから、よほどのことがない限り良い解決策は生まれてこないのです。

先に書いた、人の成長の一定の成長をしてしまった人間が、ある一定の成長を超えると、その速度著しく低下する領域に組織として入ってしまっているからです。


ではどうすればよいうのか?

目線を変えるということです。

問題解決のメンバーの中に、それを強く意識できる社員がいれば、大したリスクではないでしょうが、会社組織において目線を変えるというのは、個人の時のようには行きません。

非常に高いリスクを伴います。

ただ解決策は実は簡単なところにあります。

他部門の人間をそのメンバーにいれるということです。

そうすることにより、その問題解決メンバーの目線は変わったことになります。

当然、他部門の人間を入れるだけではダメで、そのメンバの意見を前向きにしっかりと聞き入れなければなりません。

その意見を素人だからと半分くらいにしか聞かなければ、何の役にも立ちません。

会社が大きくなれば、他組織が社内にあるわけですからこのよう事は簡単にできます。(現実はそうでもないみたいですけどね・・・プライドなんかが邪魔して・・・・)

問題は、小さな会社です。

経営者までもがPlayerのような会社は大変です。

目先を変えれる他部門が無いわけですから・・・

では社外に助けを求めればいいのか?

実はなかなかそうも行きません。

その人物がどんは人かもわからず、なかなか相談がかけれない訳です。


やはり日頃から、自分たちが必要とする人間を客観的に考え、常に顧問的な存在をおいておくということが必要なのかもしれません。

そのためには日頃から、一分野に特化した知識を習得したりその分野だけの人と付き合うのではなく、グローバルな目線を持って知識と経験を強く習得することが必要なんでしょうね。

これは、組織にも個人にも言えることですが・・・

これはとある会社の社長さんに宛てた文章です。

他のみなさんにもご参考になればどうぞ



2013年8月7日水曜日

人間のうちに秘めたるものとは

人間がうちに秘めているもの

それは色々あるだろう。性格 信念 嗜好・・・・ もしかしたら挙げるときりがないくらいあるのかもしれない。

そしてそのほとんどが、今の自分を築いているベースとなっている。

ある意味それだけ大切なものなのだ。

大切なものだからこそ、自分でしっかりと理解しなければならない。

自分がどんな人間なのか?

自分の考え方のベースになっているものは何なのか?

そしてその良し悪しも・・・


とある問題が起こっているとしよう。

その問題を引き起こしている要因は数多くあるだろうが、自分が問題となっていることが非常に多い。

それも自分のうちに秘めたる要因によってである。

そしてそのような場合、大概の人間は、自分のうちに秘めたるものの良し悪しがわかっていない。

それがわかっていれば、その問題解決は容易であり、問題を広げることもない。

しかし、人間というのは、自分を客観的に見て、自分を否定することが苦手である。

自分の良くないと思うことを認めたくない動物なのである。


しかし、そのままであれば、成長を止めてしまう

たまに、俺は俺だ!ほって置いてくれ!!と気勢を張っている人がいるが、冷静な周りの人間からすれば、情けないの一言に尽きる。

多くは問題が起こった時に自分のことは棚にあげ、他人やシステムに問題の要因を見つけようとするのがその典型である。


では人間がうちに秘めたるものとはどのようなものでなければならないのか?


ここからは私見である。

常に成長し続けるものであると認識することが大切である。

成長し続けるとは、変化し続けるものだということである。

人が持つ性格や思考は、人が意識してつくるものではない。

生まれた時から、周りの環境や経験から徐々に構築されていくものである。

ということは言い換えれば死ぬまで成長し続けるものなのだ。


では、信念はどうなのか?

何か新しいものに取り組もうとしたとき、人間は強い意志によって行動を起こす。

この強い意志が信念である

その強い思いの元、行動に移されるのだ。

ではこれは曲げてはいけないのか?

私は、性格や思考、嗜好などと同じものだと考えている。

これも、経験と知識により成長し続けなければならない。

時代の流れの中で、事を起こしている限り、変化を免れることはない

もし成長を止めてしまえば、その信念から生まれた事柄はいずれ破綻してしまう。社会が変化し続ける中で、自分は変わらないと言ってるにすぎないからである。


人間はこの内に秘めたものをベースに良し悪しを判断しているのだ。

自分が経験するものや、いろんなところから得た知識なども、これをベースに判断してると言って良い。

ゆえに非常に大事であるのだが、大事にしすぎることにより、それ自体の良し悪しの判断ができていない。

自分のうちに秘めたるものは、こうなんだ!と自信を持つことは大切であるが、同時に明日には変化していると言うことも意識として持たなければならないのだ。



自分の成長を妨げているのは、実は曲げないうちに秘めたるものであるということが言える。


マイペース

マイペースとは実は僕の一番嫌いな単語の一つである。



得てして人間はマイペースに陥りがちであるが、嫌いと言う自分も御多分に洩れず、ほとんどの生活をマイペースで過ごしている。

明らかに矛盾ではあるが、僕のいうマイペースとは少し違うのだ。


決して自分のいつもの速度よりも早く行動しなさいと言っているのではない。


よく「お前はマイペースやなぁ」と良くない例えで使われることがあるが、これは何に対しの比較で言っているのか?

これは周りとの比較に対して言っているのだ。

集団で行動を起こそうとする時、一人がそれに合わせてこない時などに使われる。

僕が嫌いなマイペースはこれである。

これは行動の速度だけではない。意識や知識の問題も含まれる。

意識や知識も人に遅れをとっていれば、全体の進行に関わる。

当然周りはフォローするが、大切なのはその遅れをとっている人間の、遅れを取り戻そうとする意識が大切なのだ。

ここでもマイペースは大きく足を引っ張る。

一人で生きて行く上においては、マイペースで構わないが、人間は、幼稚園に入った瞬間から、死ぬまで集団生活の中で生きて行かなければならない。

集団におけるマイペースほど他人ん迷惑をかけるものはない。

マイペースのすべてが嫌いではない。一人で何かを解決しようとしている時や物事にふけっている時などはマイペースでなければならないと思う。

マイペースの使い分け 大切ですよね。




2013年7月1日月曜日

会社で起こった問題について

人間はどうしても、身の回りの問題を極力解決を自分で図ろうとする。

それは決して間違いではない。

しかしそれは自己完結される問題に限ってである。


その発生している問題に、人が絡んでいるとき、ましてや、問題の対象者が人である場合は、特別な場合を除き絶対に自己完結させようとしてはいけない。

なぜなら、自分の考えるスタンダードと相手の考えるスタンダードがズレていれば問題の解決にはならない。

それどころか問題を大きくさせてしまうことが往々にしてある。

そのズレを補うのは、複数の人で問題解決に当たりズレを極力無くすか、それ相当の経験を積んだ人間が対応するしかないのだ。

先週起こった問題は、そんな簡単なことも教えてくれている。


会社の中にはリスクを予防する方法は準備できているはずだ。

しかしそれを活用しなければ、それは、準備したことにはならない。

書類の流れや、各種会議の意味合いとはそういうことだ。



2013年6月15日土曜日

日本原理主義者

こんな書き方をすれば、またまた光良過激なことを書こうとしているとお感じなるかもしれないが、この言葉は、作家の浅田次郎氏が書かれたことである。(はずである・・・)

私たちは戦後、高度経済成長ののちバブルを迎え、その崩壊により、超長期に渡るデフレという中で経済的には大打撃を受けてきたが 個人の考え方と生活スタイルだけは追求し成長を遂げてきた。

ただそれが、秩序あるものものであれば良いのであるが決してそうではない。

効率的、スタイルのかっこよさを追求するあまり、またそれが良いという自己の主張をしない、右に習え的な要素が加わり、加速度的に今の生活スタイルや国民意識までも変えてきてしまったのだ。

浅田氏がいうのはこのことなのだ。

私も深く同意する。

本来、日本人とはどんな人種だったのか?世界中でも数少ない単一国家単一民族の誇りと守らなければならない文化はどこに消え去ったのか?

世間を歩けば、日本語を話す西洋人のような日本人がほとんどである。

物理的なスタイルは良いとしても、日本人としての本来の心や文化はは忘れてはいけない。

日本人個人が心や文化を失わない限り、日本という国のスタイルは失われることはない。

個人個人がそんな意識をしっかりたもちたいものだ。

個人個人が日本を本気で愛する気持ちを持ちたい。

日本原理主義 万歳!!

サラッといつもの気持ちです。

2013年6月14日金曜日

感情のコントロール

感情には、喜怒哀楽に代表されるように常々人間が生きていく上においてつきまとう心の表れである。

ある意味、人間として生きているという実感を得ることが出来る事柄の一つであろう。

ただ人間社会を生きていく上で、この感情をあからさまに出すことは人間関係を構築する上に置いてよしとされるものではない。

出せるときにはどんどん出せば良いが、TPOに合わせ、そうでないときが多々ある。


人間はそんなとき感情をコントロールする。


実はこのコントロールには2種類ある。

よく使われるのは、高ぶってしまっている感情を抑え込むと言うことである。

これでよく見るおもしろい光景がある。

電車の中等で、子供が大声を上げて泣いている。

内容は解らないが、子供が何らかの理由で泣くという行為で感情を出しているのだ。

ただ、電車の中という状況を考えると親としてはそれを押さえさせなければならない。

必死であやす親が多い。

これは普通によく見る光景だ。

あやすという行為によって感情を抑えさせようとしている。

至って当たり前の光景である。

だがたまに、こんな光景を見る。

同じ状況で、親が大声で子供をしかりつけて黙らそうとしている状況である。

感情のコントロールが出来ない子供に感情をコントロールすることなくあらわにして叱りつけているいる親がいる。

どっちがどうやねん、といいたくなる笑える光景である。


それはさておき、感情の高ぶりを押さえるコントロールの他にもう一つのコントロールがある。

それはその逆の行為、平心状態からワザと高ぶらせるというコントロールだ。

皆さんも何回かは経験あるだろう。

高ぶってる感情を押さえることもエネルギーのいることだが、その逆は実はもっとエネルギーがいる。

一時的に高ぶらせることはそんなに難しくないが、それを持続させるというところに非常な難しさがある。

それこそ感情のコントロールだ。

コツなんて無いのかも知れない。

またそこまでする必要があるのかという声も聞こえてきそうだが、でもなりきれば楽しいもんなんですよね!!

2013年6月13日木曜日

僕の時間軸 人の時間軸 地球の時間軸 宇宙の時間軸

あなたは物事をを考えるときどんな時間軸で判断しますか?

ほとんどの人は、当たり前であるが、自分の時間軸で物事の判断をするはずである。

それは何も不思議ではない。当然のことだ。


ひとりの人間の時間軸の単位は、平均寿命と置き換えれば、だいたい85歳ぐらいになる(あくまでも男女の平均の平均くらい)

人間が物事を無意識に判断するときの時間軸は、案外これにの乗っ取っていることが多い。

自分の人生を、ベースに考え、それがすべての時間軸のように判断している。

ただ、すべての事象が、人間1人の時間軸で語られているかというと実はそうではないのだ。

たとえば、動物の進化をテレビのドキュメンタリーで見たいたとしよう

1時間ないしは2時間の番組の中で、実は数千年の進化を見せてしまう。

確かに、1時間や2時間で人類は何の進化も起こさないのは理解はしているが、テレビの中で語られている時間軸をしっかりと把握しながら番組を見ているかというと決してそうではない。

これを宇宙に置き換えてみよう

地球の誕生と月の誕生が45億年くらい前である。

もう想像できない時間軸がそこには存在するのだ。


それから考えると人の人生は本当に一瞬でしかないが、人間は時間軸においても自分を中心とする主観的物事で捉えていると言える。

そうしてもその時間軸が主になって考えてしまう。

得てして真実を見誤りかねない。

飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、戦国時代、江戸時代、明治時代、大正時代、昭和時代、平成時代
歴史で学ぶ年表に出てくるそれぞれの時代を順に書いて見た。

自分の馬鹿さを暴露することになるかもしれないが、今書いた時代はすべて、並列にあるものと思っていた。

西暦で考えればなんてことない話だが、学校で学んだ時はそのように考えていた。

いうまでもなく、明治、大正、昭和は他のものとは一緒ではない。この3つについては年号である。

他はそうではない。言わば、明治、大正、昭和は人の時間軸で判断できる表現されたものであり、その他は日本という時間軸で表現された歴史である。

わかってみれば当たり前だが、深く考えると何と無く複雑になってくる。

個人と人、 国と世界、 そして宇宙、それぞれ同じ時間で動いているにもかかわらず、ものの大きさによってその表現方法は変わってしまう。

冷静に判断しなければ大きな勘違いにつながってしまう。

主観で物事を判断すると大変なことになるという一つの例

2013年6月10日月曜日

自分と向き合うということ。

「自分と向き合ったことがありますか?」
昔よく言われた。
自分と向き合う・・・・・わかるようでわからない。
できているようで向きあえてない。
もしかしたら永遠のテーマで、きっちりと向き合えてる人はいないのかもしれない。
そんなあやふやなものなら、向き合う必要のないのではないか?と思われるかもしれないが、他人との関係をより良く構築して行くためには、やはり自分と向き合い、まず自分というものと知らなければならないだろう。

「自分はどんな人間か説明できますか?」という問いにはには、ほとんどの人が、長所と短所を説明することができるだろう。
ある意味これも自分と向き合うという一つの答えかもしれない。
しかしそんな短絡的なことではない。
長所と短所はえてして、主観的な観察から導き出されていることが非常に多い。

これではダメなのだ。

長所も短所も、客観的な観点で、自分を観察しなければならない。それが、自分と向き合うということである。

そして、長所短所だけではなく、、自分の思考特性、行動特性までもがその対象である。

主観的に自分の長所は見つけやすいだろう。
しかし、それが客観的となった時に、それは果たして長所なのか?

短所も一緒である。
ある意味、長所と一緒で自分の欠点を見つけるというのは安易であるが、無意識の自己の防衛からそれを掘り下げようとしない。
表面だけを短所や欠点と言ってしまう。
それは主観的行動である。

思考特性 行動特性を見ても同じことだ。
自分は良いと思ってやっていることが本当に正しいのか
自分の考えや行動の中に矛盾は生じていないのか。
今現在だけを観察すればそれは正しいと判断できるかもしれないが、他の感情や状況が変わった時などでも同じ判断を下せているのか?

このように長所や短所というのは主観的に見てみれば、案外表現できるのであるが、客観的に尚且つそれを掘り下げるとなると、容易なことではない。
思考特性、行動特性となればもうそれは数倍大変なことになる。
もしできたとしても、異常なくらいのエネルギーを必要とする。
通常の人間であれば、途中で断念してしまうであろう。
しかしそれにも負けず、遮断するのではなく掘り下げて自分を見つめなければならない。

では客観的に、分析ができたとしよう。
次はその分析を、冷静に受け止めなければならない。
また、修正もかけなければならない。
客観的に見た時に自分の判断や行動が、間違っている。背伸びしすぎている。稚拙すぎる。と判断できた場合、しようがないと諦めてしまうのではなく、まず現実論としてそれを受け入れなければならない。
人間は、自分にとって都合の良いことあれば、誰でも受け入れることはできるが、都合の悪いこと、批判されるべき内容については、どうしても逃げてしまう。そこを逃げずに、しっかりと認め受け入れることが大切なのだ。
ここが自分と向き合う時の最大のエネルギーのいるところである。でなければそこに成長は見込めない。

客観的に自分を分析し、それを自ら認め、悪しきことは修正を加える努力をする。
何とも微妙な書き方をした。
「修正を加える努力をする。」
内容によっては修正を加えることができない場合がある。悪しきことも、自分の個性という場合がある。こんな場合はどうするのか

修正を加える必要はないだろう。ただし、自分にはそんな思考や行動をすることがあるということをしっかりと頭に植え付ける必要がある。そうすることによって、その行動や思考は、決してマイナスには働かない。

そしてそこで導き出された自分こそが自分であるはずである。


自分が他人になり、自分を見つめ、そこに現れる自分をしっかりと認める。

それが向き合うということである。

これで自分の内にある自分の生きるための方向が明確になる。

そうすることにより、主観で動く自分を、常に客観的に見ている自分(自分の中の他人)が制御することができる。
何かまるで面白くない人生のように感じるかもしれないが、自分の進むべき道をしっかりと見極め、正しい行動を起こし、人との付き合いにも失敗なく、自分の意見を狂いなく表現できる、ブレのない人間となるのだ。

これこそが人の最大の信頼を勝ち取る最大の手法である。

再度、質問です。

あなたは自分と向き合えていますか?

もしまだなら一度向き合って見ませんか?

時間はかかります。

でも向き合えれば、その先の生き方は非常に楽になりますよ。

悩むことなんかほとんどなくなります。

常に自分にブレることのない答えをすぐに見出せますから!



2013年6月1日土曜日

大連に思う

初めて中国に上陸した。

中国でも、超親日とされる大連である。

いろんな意味で、ドキドキしながらの上陸であった。

今回は、奈良の企業で大連にも進出されている方の手引きでの訪中となった。

空港におりたち、バスでの移動中驚いたのは、高層ビルの多さである。

なんなんだ?この街は!東京に負けず劣らずの高層ビルが立ち並ぶ。大阪なんかめじゃないぞと言いたげなくらいの勢いを感じる。

しかし、ガイドさんの話を聞いて愕然とする。

ほとんどの最近できた高層マンション群は、ほぼ空き家だという。

にもかかわらず、建設中の建物も数多くある。

確かに投資目的でマンションを買うのとはあるだろうが、それは、先を見こせるからであって、待ちを見ている限り先が見えているとは感じられない。

俺がついていけてないだけなのか?

大連市内に入っても同じような状況が続く。

シドニーにあるオペラハウスに似せて作られた貝の博物館は、築後4年が立ち、未だにオープンしていない。

大連駅前の商業ビル(30回建くらい)は、完全な幽霊ビルとなっている。

一度競売にかけられたが売れなかったという。

にもかかわらず、横では超高層ビルが建設されているのだ。

日本では到底考えることのできない光景である。

何故こんなことが起こるのか?

いろいろな要因はあるだろうが、大きな要因の一つに経済戦略計画の甘さだろう。

街を見ていても計画的とは決して言えない開発が進む。

最初のビジョンはあるのだ。

故にき綺麗な公園や道路やビルができる。

しかし、先の見通しを考えないまま開発が進められている。

始めてきた人間が見ても計画の甘さは歴然で、まだそれに懲りずに開発をするという繰り返しをしている。

もうひとつ大きな裏の要因として、官民の癒着がある。高級官僚の汚職である。

開発の許可を下ろすかわりに、巨額のバックマージンの要求である。

そのすべてが国営銀行の融資によるものだ。

こんな私腹を肥やすために巨大プロジェクトが進められたとしかいいようがない。

街の発展よりも自分の私腹なのだ。そう考えるしか理解できない。

こんなことが中国の主要都市では起こっている。当然貧富の差は激しくなる。

中国人は日本人を見て、羨ましい社会主義国というそうである。

そりゃ日本の方が社会主義国だわ。貧富の差がないんだもん

一党独裁のきしみが露骨に出ている証拠であろう。

ある意味怖くてしようがない。

2013年5月29日水曜日

女性観と男性観

良く、議論の対象になるお話である

事前に断っておくが、決してどちらかを馬鹿にした話で無い

ドイツの劇作家 グラッペが残した言葉である

「女は自分が世界で有り、男は世界が自分である」

僕はこの言葉を30年くらい前にとある漫画で読んだ。

凄くうまく表現できているなぁと感心した言葉であった。

先でも書いたように決して、どちらかを馬鹿にしたのではない。

この言葉の意味は、女性は起こる事象を深く考え、男性は、起こる事象から先を考えると言うことである。

これは、うまく的を得た言葉と関心をしたものだ。

女性は現実論を納得するまで奥深く考察し納得しようとる

男性は、現実論から未来を推察し、それに向かって進んでいく。

ここからは個人の見解であるが、なぜ同じ人間の男女が髙も違うのか?

私なりの見解はこうだ。

一昔前まで男性は妻子を育て守っていくための生き物であった。

そのために頭を使い、身体を動かし、その時その時の最善の方法を考えながら行動をする。

時には議論し、時には争い、時には外に向けての決断をする。

組織においての責任もそこに起因するところかも知れない。

そもそも人間の男性は、動物的観点からそのように成長してきた。

動物的観点から見ればこれほどわかりやすいものはないだろう思う。

妻子を守り、子孫繁栄のために戦ってきたのが男性なのだ。

そのためには今を見つめるだけではなく先の予測、未来を見つめ、世界に目を向けることが、戦いに勝つ方法であったはずである。


では女性はどうか?

先ほどの話からすれば、動物的観点からすれば、最大の仕事は子を産み育てると言うことになる。

反感を買うかも知れないが、本来動物的観点、子孫繁栄という観点からすれば一番正しい答えとなる。

戦いは男性が行い、子供を産み育てるのは女性の仕事とされてきた。

ここで注目すべきは、産むは女性、守るは男性、しかし育てるは双方である。

当たり前なのだが、意味は少し違う。

男性は、えさ(お金)を持って帰ってくる事、そして世界観を教えることが育てるということになる。

女性は、人間としての基本となることを教えるのが仕事となるのではないか?

言い換えれば、子に男性は夢を教え、女性は現実を教える


ただ最近、これが逆転してきているように感じてしようが無い。

そんな不安を感じるのは自分だけなのだろうか?


女性の社会進出が駄目と行ってるのでは無いですからね・・・勘違いしないでね


2013年5月25日土曜日

私たちは奇跡の存在

我々が住む太陽系がある天の川銀河には2000億個の星があると言われている。

そしてそのような銀河が宇宙には1000億個あると言われている。

そんな宇宙の一つの星に済む私たち人間にとって、永遠の興味は、私たち以外に生命体は存在するのかと言うことである。

良く宇宙人は存在するか?という議論がされているが、私自身は存在すると確信している。

否定してしまうと自分たちの存在すら否定してしまうことになるからだ。

同じ意見を持ってる人は多いと思う。


ところがである。

それがどうも簡単ではないようなのだ。

太陽系のように安定しているのは奇跡に近いらしい。


恒星である太陽と、惑星である水星から海王星までのバランスが素晴らしく奇跡に近いらしい。

通常、太陽系のような形を構成する場合、恒星の誕生の次に土星や木製のような巨大惑星が誕生する。
そしてそのあとでチリが集まり、地球などの小さい惑星が誕生する。

この巨大惑星が大きく影響している。

特に、木星と土星という二つの巨大惑星の位置が絶妙という話だ。

もし太陽系に巨大惑星がもう一つ存在していれば、全ての重力バランスが安定せず、小さな惑星は、太陽に吸収されるか、太陽系外に放出されてしまう可能性が非常に大きいという。

逆に、巨大惑星が一つ、もしくは無いような状況ならばどうなるのか?

巨大惑星の重力が、巨大惑星より内側にある水星から火星までを他の隕石から守るという働きをしているため、 水星から火星までには、ほとんど隕石落下はないらしい。

もし、木星や土星という二つの巨大惑星がなければ、計算上、地球上には今の1000倍の隕石落下が見られるという。

万が一、生命体が地球上に誕生したとしても、隕石落下による消滅を繰り返し、今のような高度な生命他の誕生はなかったというのだ。

このように考えれば、私たちの地球のように生命が誕生し、人間のような高度な知的生物がいるというのは、奇跡と言って過言でないらしい。

ただ星も無限に存在する状況の中での奇跡である。私たちのような知的生命体が何処かに存在することを夢見たいものである。


人を怖がる


最近怖い人だと言われることがある。
人の何を持って怖いと感じるのか?
たとえば恫喝など犯罪行為をすればそれは怖い人だろう。
しかしそれ以外でも怖い人という言葉は使われる。
人が人に対して怖いと感じてるとき、それはどのような状況なのか?
自分はあまり他人を怖いと思ったことがないので、推測の域を超えないが、自分の常識の範疇を超えた行動をされたときそれは怖い行動になるのか?
しかしその行動が、社会的常識であればなぜそれを怖いと判断するのか?
それは怖いと判断する人間が、未熟だからに過ぎないのではないか?
今回、橋下市長の爆弾発言が世の中を激震させているが、あの橋下市長は怖い人だという人が少なからずいる。
しかし、あの発言の何処が怖いのか?
内容は全く当たり前のこと発言していると思うし、それが事実であるはずだ。
ほんの少し歴史を考え戦場なり軍隊という非日常的な中で継続的緊張を続ける中で、決して非常識な行動とは思わない。
人間の生理現象からしても決して不思議ではないはずだ。
同じ意見の人は多く居るはずである。
駄目なのは、市長という公人の立場で発言したと言うことである。
それは失敗だろう。
しかしそれは、馬鹿であって怖い人にはならない。
それを怖い人と判断している人達にとって、現実をしっかり見ていないにすぎないのではないか?
歴史の反省は大切だとは思う。
美化する必要も無い。
しかし現実をしっかり受け止め判断をすることは必要である。
それをせずして怖いと判断している人を理解することは出来ない。
結局、その真意を知ろうとしないからそのような怖いという発言が出てくるのだと思う。
僕は、人を怖がったことがないと言った。
なぜなら、真意を追究するからである。
そして、もし議論が出来るのであれば議論の中で真意を追究する。
そうすれば何が良くて何が悪いのかが明確になる。
そうすれば人を怖がる必要な無いはずだ。
知ろうとしない。
自分の常識から外に出ようとしない人達が常識外れを引き起こされたとき、保身のために他人に怖い人という発言をする。
怖がられてる人って、怖がってる人を確実にハナから相手にしてない。
あなたはどっちになりたいですか?


2013年5月17日金曜日

逆転の発想

良くビジネス書や、セミナーで、デメリットをメリットに変えるがビジネスチャンスにつながる早道などと言う言葉を目に耳にする。

確かにそうだ。とその都度思う。

そしてそれをいろいろ考えて見る。

皆さん、それで何か思いついたことってあります?

実は僕今までに、一つも思いついたことがないんですよ。

でも思いつかれてる人っているんですよね。


例えば、マンションの立地条件

仕事柄良く、ぶち当たるのが立地の条件です。

顧客から土地を探す条件として、駅から◯分で△△坪などとよく言われますが、なかなか駅近はないのが現状。

都市部で駅近の土地はもうほとんどありません。
だからと言って、距離が離れると、売れない、借りてがないなど厳しくなります。


そこで最近こんな賃貸マンションが出てきました。

名付けて、「ダイエットマンション」

これぞ、逆転の発想、デメリットをメリットに変えビジネスにつなげた成功例です。

名前からして凄いでしょ

この賃貸マンション、駅から徒歩18分。現状からすれば、もう借りてがなかなかつかない厳しい立地です。

しかし、ダイエットという言葉を使うことにより、この距離をマイナス要因でなくしてしまった。

オマケに家賃は従量制。

なんと体重一キロ 幾らというような設定なんです。

凄いでしょ。

この賃貸常に満室状態。逆転の発想に、まだそれにこれでもかという付加価値をつけることにより、より特化した商品を作り出してしまう。

お願いだ一ついい!俺のもこんなヒラメキをください。

頭硬いんだろうなぁ・・・・・俺・・・

2013年5月9日木曜日

騙す側と騙される側 プロ意識ってそんなもん?

自分たちの商品を売り込みたいがために過剰なキャッチコピーをつけて売り込みをしている。

確かに、自分たちの商品を買ってもらわないといけないが為のコピーであることはわかるが、訴えられても仕方のないようなものも目立つ。

最近では、ファ○リーズなどがそうだ。

実際に訴えられている。

結論が出たかどうかは知らないが洗濯という言葉を使うのが良くない。

スプレーを降るだけで除菌はできるが洗濯はできない。

しかしそれを鵜呑みにする買い手もいる。

過剰な報道は、間違った方向への誘導になる。


除菌という言葉を使ったので、菌のお話で進めると、抗菌処理されているという商品が山ほど出ている。

抗菌する必要のないものまで抗菌処理をして売っている。

それが売り文句になるからだ。

買い手側からみれば、そこまで敏感に菌に対して気にしなければならないのだろうか?

多くの人がいうように昔はそんなことがなかった。

だからと言って大病になった人がいるのだろうか?逆に、

菌の少なさからくる免疫力の低さでいろんな病気を引き起こしている。

これは誰か一人が悪いわけじゃない。

あらゆるメーカーが除菌、抗菌を言い出した賜物である。

業界全体で、メディアの力を借りて国民をうまく誘導してしまったのだ。

おかげで知識の浅い人たちは、言われるがままにそれらの商品を買い、菌イコール敵というイメージを膨らませている。

ある意味業界の大成功である。

そして、抵抗力の少ない子供が増えてきている。

なんかばかげてないか?


売る側は本来、誰のために商品を開発しているのか、多く売るためという理由は、自分目線である。

今回の話は、それの際たることと思う。

本来商品の開発は、客目線でなければならない。

メーカー側も確かに客側目線に立ってリサーチをした上での商品開発だろう。

客が要求したら、それは良い方向なのかどうかのチェックはしなくてよいのだろうか?

ただ客側目線だけではなく、客を正しい方向に誘導するのもプロの役割ではないのか?

そのためには、過剰な商品開発をするのではなく、本来必要なものをしっかりと認識した上で販売をしてもらいたいものだ。

勉強すれば必要なものとそうでないのもの区別がつくはずだ。

が、しかしだ。

騙された人も、実はとあることではプロの集団にいるはずである。社会というのはそういう物のはずである。

であるなら、自分も騙す側に回っている可能性はあるわけだ。

騙す側が状況に応じては騙される側になってしまう。

こんな極端な合戦をすることが経済の発展に繋がるとはとうてい思えないし、それがプロの集団化と嫌になってしまう。

あなたは騙してませんか?

騙されていませんか?

今回もちょっと極論でした。

2013年5月8日水曜日

セルフ マインドコントロール

自分で自分をコントロールする。

難しい事である。

人間が人間であり続けるための究極は結局そこなのかも知れない

出来る人間はコントロールできている

激動の中で・・・・・・・
激しい自分を作り、なおかつ自分をコントロールする

激しい自分を造らず平穏にするのもセルフかも知れないが、激しい自分を客観的にコントロールした方がずっとずっと楽しい!


2013年5月7日火曜日

長生きする人とは

今日は思いっきり私見で書くので(いつものことですが)ご勘弁を!!

あなたの周りに長生きしてる人いてますか?

当然おいでになると思うのですが、その方って、現役の時どんな生き方されてました?

最近そんなことがすごく気になる。決して、死を意識したからではない。

ふととあることに気づいたからである。

健康に最大注意してる人ってどれくらい長生きしてるんだろう?

当然統計をとったわけではない。が、平均寿命ぐらいまでが関の山ではないのか?そんな気がしてならなくなった。

「私は昔から、健康に一番気を使ってきました」という長寿のお年寄りを見かけたことがない。

それよりも僕が長寿だと感じる人は、社会のリーダー達だ。

当然、全員ではない。

早死にする人も多くいるが、相対的に見て長生きしてるように感じる。


特に国会議員の長寿は絶対であると確信する。

最後までパワーあふれるバイタリティで活躍されているからかもしれないが凄さを感じる。

国会議員の一日ってあまり皆さん方は知らないかもしれないが、普通の社会人をはるかに超える時間と頭を使って仕事をされている。

そんなことはないとお思いの人や、俺の方がずっとしてるという方もおられるだろうが、絶対に普通の人にはできる代物ではない。

一度何日間か連続で密着同行させていただいたことがあるが、所詮僕らは庶民だと思ってしまう瞬間が毎日いく度となくやってくる。

ストレスも半端ではないはずだ。

確かに、ストレスで胃を煩わせたりしている人は多いかもしれないが、機械であれば、酷使しすぎでヒートアップしリタイアするところであるが、それが、彼らにはない。

決して庶民のように健康重視で食事に気をつけたり、サプリを飲んでみたりという人はあまりいない。

自分のことをかまってられないのが現状のはずだ。

バイタリティある行動による脳の活性化が健康につながっているのかもしれない。

長生きの秘訣って、若い頃からバイタリティ溢れる生き方をすることなんではないだろうか?

確かに、僕の周りにもそんな人は多くいる。

そんな人たちは、病気など寄せ付けないくらいの勢いで頭を使い効率的に行動を起こしている。

そんな人たちの方が長生きするように思えてならない。

ある意味、嫌われっ子よに憚るとはこのことなのかもしれない。

ただどんな人間であっても、酒の飲み過ぎはすべてを無にしてしまう。

国会議員に大酒飲みは一人もいない・・・・(弱いということではなく飲む機会が少ないということです)

まずはお酒を控えるところから・・・

2013年5月5日日曜日

堅実経営と守りの経営

今世の中は、アベノミックスという造語の元、浮かれ気分で大騒ぎしている。

決して経済論をここでぶちまけるつもりはない。

バブル崩壊後、何回かあった景気浮揚のチャンスが、内部要因、外部要因多々ある中で摘まれてしまい、長期のデフレに突入した。

昨年末に、デフレからの脱却を大きく掲げる安倍政権に変わるやいなや、具体的対策がまだ打たれない中で、景気浮揚に向けた動きが出てきた。


これはなぜなのか?

確かに、円安や株高が、国民の財布の口を緩め手いることも一つの要因ではあるだろうが、大きな要素としては、国民の精神的なところに依存しているのが非常に大きいのではないだろうか?

ある意味根拠のない期待感から気分が楽になっているという心理が大きいように思う。

そんな中、そんな効果を期待する声は経営者の中にも聞こえてくる。

それはそれで、良いのだが、良く耳にするのが「堅実経営で、派手なことを何もせずに我慢してここまできたから会社が存続できた。今回のアベノミクスでやっと普通の会社になれる!!」??????

この経営者なんか間違ってないですか?

派手なことを何もせず我慢することが堅実経営と勘違いしておられる。

堅実経営は、攻めの経営の言葉と僕は認識している。

攻めの中にいかにリスクを回避することを念頭に置き、対策を打ち博打にならないような経営をするか!

これこそが堅実経営である。

ありとあらゆる策を講じているのだ

この経営者が言っているのは、守りの経営であって、じっとしているだけの経営である。

いろんな不況を、そんな状況で生き残ってきた会社は、申し訳ないが今回のアベノミックスで、負の引き金を引いてしまう可能性が大きい。

堅実経営、攻めの経営をしているからこそ、今の経済の動きや業界の流れをしっかりとリアルタイムでつかめている。

しかし守りの経営をしてきた経営者は、情報の収集にすら投資をすることなく、一途に周りが動くのを待っていたに過ぎない。

これではリアルタイムな情報をつかめてるわけもなく、突然経済の浮揚があったとしても、景気が良い頃の昔と同じ経営でしか対応できず、結局は時代についていけずに、取り残されることになってしまう。

よく、苦しいときこそ最大のチャンスといわれる所以はこんなところにもある。


GW以降から、昨年度の補正予算の11兆円が世に出てくる。

このチャンスをしっかりと地に足を付けながら、大きなチャンスとするか、目先だけを追いかけ、ニヤニヤするかで数年後のその会社の姿が予想されるに違いない。

堅実経営と守りの経営は、似て全く別物の言葉なのだ。

さてあなたはどっち?



2013年5月4日土曜日

パートナーとはいろんな意味で奥の深いもの

あなたにとってのパートナーは誰でしょうか?

多くの方は配偶者を思い浮かべるでしょう。

確かにパートナーです。

しかし、パートナーという言葉はそんなに幅の狭いものではありません。

自分にとって必要とする人、もしくは、自分を必要としてくれる人はすべてパートナーとです。

配偶者、家族、従業員、参加している団体のメンバー 等々・・・すべての人をパートナーという権利を持った人たちだ。

ただ、残念ながら、ちょっと違うニュアンスで書いたように、全員がパートナーとなるわけではないです。

パートナーとなるためには、価値観を共有できなければ、本来のパートナーにはなれない。
形を作って思いが一緒でも、目指すプロセスや考え方が違えばそれはパートナーと言えない。
パートナーを形から入ってしまうと、価値観の違いや思いの違いから必ず歪みが生じ、亀裂が生じる。それは本来のパートナーとは言わないのだ。

会社においても、経営者が理念を掲げるからこそ全従業員が価値観を共有でき、共にパートナーとなれるのだ。

ではパートナーとは何なのか?価値を共有するということはどういうことなのか?

人間は価値観が共有できても、全く同じ人間ということはない。

お互いにないものがある。

そのないものを与え合うという行為こそがパートナーとしての一番大切なスタンスであると感じる。ゆえに、お互いが成長し続けてこそパートナーと言えるのだ。

そしてそれは、永遠に続くものもあれば、成長の過程で自然と価値観が変わり離れて行くものなのだ。

長いスパンで見た時、自分の付き合う相手が変わってきてる人は、良くも悪くも自分の価値観が変わってきていると思えば良い。


あなたの周りには、どんなパートナーがいてますか?

その人とは今までどんな関係できましたか?


2013年5月2日木曜日

反対意見と賛成意見


世の中のあらゆる出来事において、興味の有り無しは別として、必ずそこには賛成と反対の意見が存在する。

毎日繰り返される、テレビや新聞の報道を見ていても、賛否の意見が良く報道されている。

総論的に観察をしてみると、どのような出来事であっても概ね反対意見の報道が多い。

あくまでもマスコミによる世論誘導はないのもとして考えて欲しい


では実際にそれだけ反対意見が多いのか?

賛成意見を反対意見が大幅に上回っているのかというと実はそうではないのだ。


ではなぜ、反対意見ばかりが耳につくのか?

人間は、意に反した内容、自分に得がない場合 自分が不利益になるような内容の時は声を大にしてたてつく習性がある。

皆さん方も経験があるだろう。


では、賛成の時はどうか?

実は人間の本能として、意に沿った内容、自分に徳や利益がある無いようについては、コッソリと推し進めてしまう生き物である。

故に自分に利益がなくても、賛意については、わざわざ自己主張しない。

賛意の自己主張しないことが美学のようになってしまっている。


ではそれで良いのか?

決してそれで言い訳がない。

以上は、すべての事象において賛成または反対の意見を持つと言うことを前提に書いた。

当然そのどちらにも当てはまらない要素がある。

自分は興味が無い、その事象について詳しくない内容などは、度地も選択の出来ない玉虫色になる。

そんな人達にとって、どちらかを判断しなければならないとき、世間の声というのは大きな判断材料になるのだ。

選挙などがその最たるものである。

具体的j指示のない人達は、世間の意見をとりいれてしまう。

4年前の与野党逆転などはその最たるものだ。

現与党の自民党は駄目だという意見はどんどんと声に出されそれがあたかも世論のすべてであるかのように渦巻いた。

しかし、そんなかでも自民党を支持したり自民の政権運営に賛成の人達も多くいたのである。

しかし、そんな人達は、ほとんど声に出して発信はしなかった。


このように、賛成と反対で発信される声の数や大きさは、それが世論とはほど遠いくらい違っている。

世間が正しい判断をするためにも、賛意を持っている人は堂々と発言をしなければならない。

批判だけをするのではなく、応援をするという事がいかに大切か、それが自分の生きる道、国の歩む方角をも曲げてしまう大きな世論になりかねないのだから・・・

2013年4月26日金曜日

心の安心基準と国際基準の違い

これ、何のことが言いたいか解りますか?

3.11東日本大震災の時、福島第一原子力発電所で起こった事故を発端にして、国が国内の放射能の安全基準を引き上げたことを言っている。

逢えてここではその数値は出さないし、その具体的数値のお話をしたいわけではない

事故が起こる前までも、日本は独自の安全基準値を持っていた。

しかし、実際、事故が起こり風評被害が深刻になってきたとき、それを緩和するためなのかどうか知らないが、放射能安全基準値をより厳しく引き上げたのである。

そのニュースを聞いたとき,ものすごく不思議に感じた。

何の意味があるのか?何お役に立つのか?

少し考えただけで全く何の意味が無いことなど明白である。

もし当初の数字に対する根拠の甘さがあったのならば、その影響は多くの人の人体に出てきてたはずである。

そんなことは実際に起こっていない。


基準を引き上げることによって、何が起こったのか?

実はプラスに転じたものなど何もないのだ。

自分から情報を取って判断をしようとしない愚人たちの心の安心感を与えただけで、すべてはマイナスでしかない。

そんな愚人たちもほんの少し考えればすぐに解るはずなのにそれで安全基準を引き上げてもらい良かったと思っている。

本当に情けない。


では何にマイナスが生じたか?

これは計り知れないぐらいの損失が発生してる。

発災前の基準値であれば出荷できていた商品が、出荷できなくなってしまったのである。

発災前、僕たちが平気で口にしていたものがすべて捨てられるという訳のわからないことが起こってしまったのだ。

被災地の経済復興に大きな影を落としてしまった。

なぜ国はそこまでしなければならなかったのか?

本当に未だに不思議でしようが無い。

心の安心をもらった愚人たちは、国際基準と発災前の日本の基準 そして今の基準が何を意味するのか全くもって解っていないとしか言いようがない。


国際基準で世界で問題が起こっているのか?

放射能だけではなくその他の基準値でも一切の問題が起こっているとは聞いたことがないし、問題が起こるような数値を各国がほっておくこともあるはずが無い。

早い段階での今の基準を見直し、国際基準と同レベルまで引き下げることを切に願う。

被災者以外の心の安心を満足させるために被災者自らが犠牲になっている最たる例だ。

基準値とは世界中で一つでよいはずだ。そしてそれは世界中の人達の心の安心を生むものである。

それ以外の数字は、全く無意味であるし、国民はそのことをしっかりと理解するべきだ。

そんな馬鹿な数字を今の日本は持っている・・・

2013年4月24日水曜日

運命の出会い

あなたにとって運命の出会いは、あっただろうか?

決して、結婚相手というような、恋愛的要素で言ってるのでは無い。

自分の人生を左右するくらい、自分の意思を激震させたような人物との出会いである。


私はつい先日、そんな出会いがあった。

相手が相手だけに具体的なことの記述は避けようと思うが、こんな出会いは今までにはない。

確かに今までも、人生を左右されたような出会いはいくつかある。

しかし今回のように、自分の心中に触れたのは初めてである。

まさに「琴線に触れる」とはこの事なのか


ただ自分が生きている限り、今回が最後というわけではないだろう。

今の自分にとっては、最高で最大の出会いだったかも知れないが、自分が今後、どのように変化し、成長するかによっては、また違うショッキングな出会いはあるはずである。


だから人間は辞められない!!!




2013年4月22日月曜日

挨拶はコミュニケーションの基本

半年ほど前に、挨拶について書いたがもう少し触れて見たい。

きっちり挨拶をする人が減ってきている。

挨拶は人としてコミュニケーションの基本である。

挨拶のできない人にまともなコミュニケーションができるはずがない。

なぜなら、挨拶は、単に自己表現ではなく、相手を思うお互いの気持ちから素直に出てくるものと私は考えているからだ。


「おはようございます」とお互い声を掛け合う。

こちらから声を掛けることにより、

その返事で相手は元気なんだろうか?

どんな感情なのか?

読み取ることができるし、場合によっては気遣ってあげることができる。


自分は挨拶の中に会えて自分の感情を表現するようにしている。

元気であれば元気良く!

楽しければ楽しく!

病んでいればしんどそうに・・・・・

怒っていればぶっきらぼうに・・・・

決して過度な表現はしないが、それがお互い気づき合えるものどうしの挨拶で良いと思う。

分かり合えるもの同士が自分を表現すればそれがコミュニケーションとなる。


しかしそのように考えている人は殆どいない。

がゆえに挨拶すら疎かになってくる。

挨拶はしてても、毎回ボソボソ・・・場合によっては、目だけ合わせて首を縦に振る。確かにそれも挨拶だろうが、それでは相手に何も伝わらない。


挨拶こそ、世界共通のコミュニケーションの基本である。

挨拶のない国は存在しない。

挨拶を通して自分の今を表現し、相手の挨拶から相手の今を汲んであげよう。

2013年4月20日土曜日

信じることの大切さ

どこで聞いたわけでも、本で読んだわけでもない。

ただいくつのときからか、成就させたいことは、念じ続ければ必ず成就すると信じるようになった。

きっかけも覚えていない。

しかし、確かに強く念じ、信じ続ければ殆どの事が成就してきている。

(成就してないことは信じ足りないのが原因と思っているからかもしれないが・・・)

客観的に分析してみると、当たり前なのかもしれないが念じ、信じる裏側には、それに向かって無意識にいろんな努力をしているものだ。

そんな無意識のアプローチがあるから、成就できるものなのだ。決して偶然でもなくテレパシーでもない。

一番良くないのは、成就させたいことを途中で諦めてしまうことだ。

要求はするが、「そんなことはあり得ない」と諦めてしまえば、無意識のアプローチも消えてしまう。当然成就できるはずがない。

どんなに複雑なことであろうが、単純なことであろうが人間の要求は、その人の行動や意思によって必ず成功を収める。

成就できなければ自分を攻めるべきである。

なんか凄い終わり方・・・

さて、次は何を成就させようか?

2013年4月18日木曜日

バックアップの大切さ リクスマネジメントの最終形とは?

皆さんよくご存じの野球の話をしようと思う。

決して学生時代部活でやっていたというわけではないので先に断っておく。

野球のプレイ中、特に守備側には常にバックアップという行動がついてまわる。

意識していなければ、なかなかわかりにくい。

特にテレビではバックアップの行動はほとんど映ることはない。

男性はお気づきかもしれないが、ボールが動くところにはメインで動く選手の他に必ずバックアップをする選手が存在する。

ピッチャーが牽制球を一塁に送る。

一塁手の捕球ミスもしくは、暴投を想定して、牽制行動なはいった瞬間に、セカンドとライトの選手が、ファーストの後ろ側に回り込む。

内野ゴロの時も外野手は必ず補給するべき選手の後ろ側に回り込む。

万が一のエラーがあってもその被害を最小限に押さえてしまう行動である。

この行動がバックアップである。

プロの選手などは、滅多なことではエラーをすることはないが、プロの選手ほどきっちりとバックアップの行動をとる。

この一連の行動これこそチームワークである。


私たち、会社組織を構成するメンバーとして、プロ野球のようにバックアップは取れているのだろうか?

他社はどうか解らないが、少なくともうちの会社は、正直なところほぼ無いに等しい。

エラーをしてから対処を考えている。

全くリスクに対する備えがないと言わざる終えない。

言い訳をするなら、バックアップのことまでを考える人的要因がいないというのが正直なところではあるが、人員の不足は理由になるはずがない。

内部エラーであればそれはまだしも外部エラーは、深刻な問題である。

確かに外部エラーに関しては、バックアップの体制は取ってはいるものの、精査されているかというと大きな不安が残る。

近々に見直しを賭けておかなければ取り返しのつかないことになりかねない。

やばい!

今回はバックアップについて取り上げたが、このように、実はメインで動く人間はもとより、それと同等くらいの割合でバックアップが大切であることは容易に解る。

エラーをしない会社作りも大切かも知れないが、その組織を人間が動かしている以上、エラーは起こるものと考えれば、エラーから出るロスを最小限に食い止める方法をしっかりと構築しておかなければならないのだ。

と書けば、それで終わってしまう。


確かに、エラーを最小限に抑えるシステムを構築することこそリクスマネジメントと言われるものであるが、本当にそれだけでいいのだろうか?

リスクマネジメントをしっかりと考え手法として組み込んでいればそれでいいのか?

どうもそうは思わない。

リスクマネジメントがしっかり構築できていてもエラーを起こすのは人間である。

人間ほど、想像を絶する行動を取るものだ。

言い換えれば想定外のエラーは安易に想像できるのである。

原発事故における想定外は想定外で済ませるわけにはいかないが、それを例に取れば良くおわかりだと思う。

リスクマネジメントやバックアップというのはすべてが想定内のものであり、想定された時点で想定外でなくなるのだ。

当たり前と言えば当たり前だが、必ず想定外は存在する。

では、どのように対処すればいいのか?

極力、想定外を減らすためにいろんなパターンを考え、それに対するバックアップを考える。

確かにそれは正しいだろうが根本的解決にはならない。

結局のところ、手法やシステムでその想定外を回避する、もしくは最小限に食い止めると言うことは不可能なのだ。

それを解決できるのは唯一、個人であると言うことだ。

それに携わる人間が、その業務の目的をしっかり把握し、抽象的な思考の中でエラーが起こったときに第一に考え守らなければないものはなにか?そのために自分が執る行動はなんなのか?ということをしっかりと理解した人間の個人の行動でしか食い止めることは出来ないのだ。

野球のバックアップは、ほとんどが手法に則って動いているバックアップであるが、想定外の動きがあったときは、個人の瞬時の判断でしかバックアップは出来ないはずである。


結局のとこと個人の資質を上げることが、最終最後のリスクマネジメントなのかも知れない


と書きながら、次回はエラーをいかに食い止めるかについて書こうと思う。

ぐふふ!!





2013年4月16日火曜日

人を選ぶ 人に選ばれる

あなたはどちらを好みますか?

ほとんどの人は人に選ばれたい!と思うでしょう。

選ぶ側より選ばれる側の方が、一般的には責任が重く社会的ポジションが上な方が多い。

選挙などがその際たるものである。


でも本当にそうなんだろうか?

自分の人生を振り返った時、人に選ばれる人生と人を選ぶ人生なら、人を選ぶ人生の方がいいのではないだろうか?

人を選ぶ人生は、非常にリスクが高い。

自分の付き合いたい人間を選ぶわけであるから、周囲の人たちからみれば、非常にエゴイストのように見える。

しかし自分が自分の人生の方向性を決めて、それを目指していくにはそれぐらいの覚悟をもって取り組まなければ前進することはできない。

自分の人生に必要とされる人物をしっかりと定め選び込む。

そしてその付き合いの中から自分の成長に必要なものをしっかりと学んで行く。

それが人の成長の大きな一歩となることは明確である。


選ぶということはその裏返しもある。

自分にとって必要としない人物の排除である。

排除していかなければ、目標地点まで遠回りになるどころか、足を引っ張られ達成すら危うくなりかねない。

実は、人間はこれを無意識の中でやっているはずである。

自然な出会いと自然な別れという差し障りのない中で片付けてはいるが、多くの人がこれをやっているはずだ。

必要がないから疎遠になるのだ。

だからといって良いわけではない。

意識をして選択と排除をしなければ、目標を見失ってしまう。

そうすることによって人任せの人生から自分で自分をコントロールできる人生へと変わる。


では、選ばれるのを待つ人生は良くないのか?

決してそうではない。

選ばれる人生はもっと格別である。

ただ・・・・・・誰に選ばれるかによるが・・・

先で言った選ぶ人生をしている人物に選ばれればこれほど格別なことはない。

その人物の人生設計の中で、自分が必要とされているわけであるからこれほどの至福はないのである。

問題は、自分の目標をしっかりと定めず人生を送っている人物に選ばれるとこれは厄介だ。

丁重にお断りするしかない。

もしくは、選ばれない行動を常日頃からとっておくべきである。

ある意味それも人を選ぶ人生なのかもしれないが・・・

いずれにしても人を選ぶ人生も選ばれる人生も、双方がしっかりと目標を持って歩んでいるもの同士が自然と引き合うことは間違いない。


あなたの周りに選びたい人いますか?

自分を選んで欲しいなぁと思う人いますか?

そんな人物が多くいる場所に勇気を持って飛び込もう。


一度きりの人生だから・・・







2013年4月14日日曜日

安倍内閣の高支持率から会社経営を学ぶ

誕生当初から、高支持率であったが、ここにきて、75%を超えるという、ある意味わけのわからない状況が起こっている。

なぜなんだぁ?

皆さんこれどう読みます?

凄い凄いと喜んでます?

もし喜んでるのであれば、もう少し深く考えて見てください。

75%を超えるということは、長年の宿敵や、考え方が全く会いまみれない人まで一部を除いて支持してるっていう数字である。

目先だけの判断や、周りに流されて支持してる人がいるならまだしも、ある種ポリシーを持ってた人までも支持に回らなければこの数字は出ないのですよ。


今回の安倍政権が掲げている三つの矢

国民は本当に理解しているのだろうか?

僕自身は、自民党員ですから、反対に回ることはないが、一つ一つを見た時に違和感を感じることが多々ある。

もっと具体的にいうと、TPPに反対してる人って、国民の25%くらいしかいないだろうか?

そんはずはない。

ということは、TPPに反対してる人でも指示をしてる人が多くいるということだ。

デフレ脱却についても、テレビに出ている経済学者のお話は、はなから相手にしないが、デフレからの脱却って必要だとは思うが、今とろうとしている手法は本当に正しいやり方なのか?

個人的には安倍内閣が現在世間に発表しているのは短期的カンフル剤としての役割は充分果たせるだろうが、経済安定という長期的展望に立つと大きな疑問を感じてしまう。

本来は、そこまでの道筋があり、その初段としてカンフル剤があるはずである。

会社経営をする人間にとって国の大きな方向性の中から、私たちの会社の方向性を見出さなければならないと立場からいうと安心感が全くない。

このように、一つ一つを取り上げれば、メディアでも取り上げ懸念されている内容が湧いて出てくる。


さて、では、なぜ支持率が高いのか?

僕自身も、これだけ書きながら支持するかどうかと聞かれれば、間違いなく支持すると答えるだろう!

そこには、安倍内閣の巧みなマジックが隠されている。

全方位的世論対策がなされているのだ。

例えば、TPP反対者がいるとしよう。

TPPには反対なのだが、デフレ脱却は賛成というように、反対者に対して別のところで賛意を得ることができるような対策がなされている。

それが、うまく国民を分析した上でスパイラル上に対策がなされている結果なのだと感じる。

でなければ、このような支持率は出てくるはずがない。


ある意味、自民党だからできる全方位対策をきっちりと分析した上で、政策を掲げている。

前の政権のように、何処かに突出したような政策であれば、反対者はいつまでたっても反対なのだ。

潰れるべくして潰れた前政権も、全方位型対策をとっていれば もう少しマシだったかもしれないが、そこまで高度なことができる人間の集団ではない。

これは、実は会社経営にも同じことが言える。

言わずもがなであろうが、経営者は常に全方位型従業員対策を取らなければならない。

経営者が単一方向型であれば従業員はついてくるはずがない。

反対者はいつまであっても反対者なのだ。

高額な給料で引っ張るというやり方もあるだろうが、長期的に見た時にそれでは会社の存続はまずないし、会社自体のモチベーションが上がらない。

何処かに従業員が納得できる内容をあちこちにちりばめておくか これこそ経営者の手腕の見せ所であろう。

最後に、
支持率が高い=成功 ではないことを会えて書き、今後の手腕と動向を冷静に見極めて行きたい。


2013年4月11日木曜日

当たり前と思うか奇跡と思うか

人間は、常日頃起こる状態を当たり前と思っている。

当たり前に繰り返し起こることに何の不思議も感じない。

それは、自分を中心におき、すべての現象に慣れ親しんでしまった状況におかれているからだ。

朝起きて寝るまでの間に、起こる現象は、だいたいがいつもの繰り返しである。

驚くような変化が起こらないため当たり前になってしまう。


では、そんな状況の時に、非日常的なことが起これば人間はどう感じるだろうか?

例えば宝くじで高額当選した。驚き慌てふためき、奇跡だぁ!と叫ぶに違いない。


しかし考えてみよう。

毎日毎日の日常的なことを、自分を中心におかずに、グローバルな目線で客観的に見た時、それは当たり前のこととなるのだろうか?

極論かもしれないが、人間の存在そのものが宇宙からみれば奇跡的な出来事なのだ。


そしてそのように見てみれば日常的に当たり前に起こっている出来事すら、別のもののように見えてこないだろうか?

同じ事柄でも、見方を変えれば、無関心だったことにも関心を持ったり、感謝の気持ちが現れたりする。

奇跡とまで思わなくとを、当たり前としてまうのはだいぶ持ったいない気がする。

日常は奇跡の現象のの連続なんだから!

2013年4月9日火曜日

物への拘り 得るもの大、出費も大

自分は何でも自分で納得するまでやってみるたちである。

常になんでも興味があれば疑問を持ってしまう。

どんな工程でこれはできているのか?

それを使えば何が変わるのか?

気になると手にいれて触って自分でやって見なければ納得いかない。

食品でいけば、梅干し、味噌、らっきょう、烏賊の塩辛、ぬか床、塩麹、まぁありとあらゆるものを作り、失敗を繰り返し、そうすることによって、どのようにできているのかをしっかりと勉強した。

梅干し、味噌、らっきょう、ぬか床などは今も現役で作っている。

よく皆にマメやねぇと言われるが、欲しくて作っているのではなく、最初は知りたくて作ってしまう。

常にそこからスタートする。

Facebookにもいろいろあげたが、木工細工や革細工ももそうである。

欲しいもの、必要なものがあれば、まず自分で作れないか考えてしまう。それを作るために必要なものは何かを考えそれを買ってしまう。

なんか間違えてるでしょ・・・

革細工や木工細工はその際たるものだ。財布が欲しければ財布を買えばいいのに、作れないかと考えてしまう。

財布を手に入れるために工具と革を買うのだ。

革細工などは、ほとんどの工具を揃え、自分でやって見た。

複雑なのは到底無理だが、名刺入れや携帯ケースなどは、自分で作成している。

そうすることで、初めて皮の切り口がどのように処理をしてツルツルになるのかがわかるのだ。

皮の縫い方にも色々あることがわかる。

おかげで革の特性を知ることができた。

一番の際たるものは、バイクである。

40歳になり、大型二輪の免許を取得した。

それまでにも、バイクはモンキーを持っていたのだが、大型二輪の免許をとったと同時に、モンキーのチューンナップを始める。

自分の納得行く形に変えて行くのだ。オークションでパーツを探し、取り付ける。

当然工具の必要になる。値段の高い工具ではないが、家には、他の家にないような工具などもある。

シャーシを除き見た目の形はそのままだがほぼすべてのパーツを付け替えた。

エンジンのボアアップも自分でした。

こればっかりは骨の折れる作業であったが、エンジンがかかった瞬間は今も忘れることができない。

おかげで、エンジンの基本構造はよくわかった。

そしてとうとう大型のバイクに手を付ける。

エンジンすら触ることはしなかったが、基本は、50ccも1450ccも一緒という楽観的な考えで触りまくった。

すべて自分でである。確かにお金を出せばより安全にやってはもらえるが、それでは面白くない。

わからないまま終わってしまうのが一番気に食わない。

エンジン周り以外は電気系まで一度は確実にバラしている。

おかげで、今列挙したものだけではなく、それ以外のもいろいろやっている実践による知識は豊富に増えた。

実践から学ぶために本は実践のための教本として購入するが、単に学ぶための本はほとんど買わない。

おかげで今も、実践からしか学ばない考えは拡大中であるし、そのための本はものすごく増えた。今は万年筆の本が増加中である。


万年筆がちゃんとかける仕組みなど知った時はなる程なぁと感心した。いずれバラすんだろうなぁ



学ぶということは素晴らしいことであるが、これの最大の欠点は、不要なものまで購入してしまう浪費である。


この癖は治らんなぁ

2013年4月7日日曜日

ペンドクター  人間の思い込みのお話

ペンドクター 万年筆を使われてる人たちは知っていると思う。

万年筆の微調整などをしてくれる人のことである。

最近万年筆を使い出した新米がいうことではないが、万年筆はほんのチョットした微調整で劇的に書き味が変わるという。

当然すべての万年筆に共通の調整をするのではない。

使い手一人ひとりの癖にあった調整をしてくれるのだ。

その人の癖を見抜き、ペン先にヤスリを充てる。

自分はまだ経験は無いが劇的に変化があるらしい。

微調整してもらった人は、その書きやすさに感動するらしい。(経験もないのにブログに書くなという声が聞こえてきそう)


ただ僕がここで書きたいのはそんな話じゃない。


ペンドクターに言わせると、全く調整する必要のないペンもたまにあるという。

ただそのペンの持ち主は、書きにくいと感じている。

こんな時、あなたならどうする?

普通であれば、「このペンは調整しなくても最高の状態で大丈夫ですよ」と言ってしまいまいそうだ。

でも、書き味が悪いと感じている持ち主に、「これ以上、良くはならない」と言っているのと一緒になってしまう。

そうするとその持ち主は、その万年筆を徐々に使わなくなってしまう。

そこで、このペンドクターは、ヤスリを充てるポーズだけで削りはしないらしい。

そして「如何ですか?」と客に確認させるらしい

客は、「おー!格段に書き味が良くなった」と感動してくれるという。

決して客を騙してるわけではない。

ペンドクターのカリスマ性が、使用者の「ペンドクターが触れば、書き味が良くなる」という暗黙の思い込みを、うまく逆手に利用して、持ち主を納得させている。

喜んで持ち主は帰り、その万年筆を使い続けてくれるという。

人間の思い込みというのは、良くも悪くも不思議なもんですなぁ。

あーーちなみにこのペンドクター、これで代金はとっておられませんから、お間違えのないように・・・





2013年4月6日土曜日

ポンペイにて その5

その5を一応このシリーズの最終回としたい。

最後はやはり、豊富な観光資源について触れて見たい。

先でも述べたように、このポンペイ島は海洋資源が豊富である。

南の島といえば常夏のギラギラな太陽を想像されるかもしれないが、実はそうではない。

非常に雨が多いのだ。

一日必ず何処かで雨が降っているという。

故に、豊富なミネラル分が海洋に流れ出し濃い魚影を作っている。当然透明度は落ちるが・・・

さてやはりダイビングについて触れたい。

ポンペイにおけるダイビングポイントは、珊瑚礁の島の性格からPASS(水路)もしくは WALL(珊瑚礁の壁面)がほとんどである。

昔から、ポンペイはブラックマンタを見ることができるということで有名であった。

それは今も続いている。

今回の訪問でも、12枚のマンタと遭遇したが、うち5枚がブラックマンタという高確率な遭遇である。

それ以外にも、バラクーダやギンガメアジの群れは当たり前に見ることができる。今回はグレイリーフシャークを多く見ることができた。

大物だけではなく実はマクロ系も面白い。

サイパンなどでは、グロットで35mオーバーでないと見ることができないヘルフリッチ(シコンハタタテハゼ)が25m位で見ることができた。

それもペアでだ。

ブルーマスクも今回始めてお目にかかった一種である。

それよりも自分にとって今回の目玉は、何と言ってもにニシキテグリだ。

詳しく走らないが、日本の近くでニシキテグリを見ることができるのはパラオが有名である。

パラオにいかないと見れないものだと思い込んでいた。

それがだ。

普通にいるのだ。

それも数多く!

何なんだここは!?

と感じた瞬間だ。


初心者でも4〜50分のダイビングで5個体くらいは充分確認できる。

それ位で普通にいるのだ。




ただ見つけるのは至難の技である。

エダ珊瑚に隠れるように生息しているため難しい。

それでも見つけることができる。

それだけの数がいる。

それを独占できる。

何とも至福の瞬間。我慢と根性は必要だが・・・



今回は、バラクーダのトルネードにも遭遇した。

バラクーダの渦巻きの中に入った。

360度どこを見てもバラクーダである。

今回はただダイビングを楽しむだけではなく、一応、ポイントとダイビングスタイルの確認も訪問の一つに入っていた。

より上級者向けではあるが、群れに遭遇する方法も確認できたように思う。

ダイビングサービスを運営するE氏は確信を持ったようだ。

ダイビングサービスをスタートさせて約一年。

最初の訪問は行き当たりばったりだったが、この一年で、潮の動きや特性をしっかりと掴まれたように実感した。

素晴らしい。

逆に言えば、どんな素晴らしい海でも、特性を知らなければその素晴らしさに出会うことは全くないということである。

E氏には感謝である。

さてダイビングはここまでとして、他の観光資源について触れて見たい

実は海でのコンテンツがもうふたつある。

一つはフィッシングである。

GTやカジキ狙いの訪問者が時々いるということだが、そんなに多くはない。

自分んも詳しくないので、フィッシングについては触れない。


もう一つがサーフィンなのだ。

これも自分はやらないのだが、サーファーからは、太平洋の聖地と言われてるらしい。

パルキルというポイントまで船で出て行き、環礁で波に乗る。

事実、今回宿泊したホテルもサーファー御用達のホテルのようで通路には多くのボードが置かれていて、朝はワックスを塗るサーファーの姿と目にした。


特に冬場は、驚くような波が立つようで、3ヶ月の長期滞在をしているサーファーもいるようだ。

ホテルの部屋には写真が掲げられていたが、すべてポンペイでの写真のようで、その波の凄さは尋常ではない。

日本人サーファーもぜひチャレンジして欲しいものだ。


実は海での楽しみはこれくらいだ。





島のすべてをマングローブで覆われているためビーチがない。

よって他のリゾート地にあるようなビーチで楽しむコンテンツは一切ない。

ここが、家族連れれなどを拒んでいる大きな要因でもある。

陸上に目を向けると、ナンマドール遺跡というのがある。

これは詳しくは調べてもらえば良いが、一見する価値は充分にある。

何とも南の島で海に面した神秘的な大きな遺跡である。


先にも書いたマングローブ林がすごい。

手つかずなだけあって、マングローブ林が陸地から数キロに渡って海に張り出している。

実際にボートで中に入り込んでみたが、カヤックなんかでお口に入り込んでいく感覚はちょっとした冒険心を目覚めさせるような感覚だ。


雨が多い分、川がいくつもあり、山から海が近いため、あちこち滝がある。

この滝巡りをするのも面白いのではないかと思う。

ケイプロの滝が有名であるが、その他原始林の中を進み滝に遭遇するなどワクワクドキドキものではないか!

あと忘れてはならないのが、島の象徴である、ソケーズロックと言われる、ものすごく大きな一枚岩
がある。

これも訪れることができるらしく実際に登って見るのも良いのではないか



本来もう少し楽しめるコンテンツはあるのかもしれないが、自分が認識するのは以上である。

以上のようにマニアックなコンテンツが多く、しかしそれをうまく組み合わせれば十分売りになる。