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ダイビングとバイクをこよなく愛する53歳のおやじ。じっとすることが嫌いな性格はいつまでたっても変わらず。なんにでも興味を示す雑食派 人との繋がりが自分のすべてのエネルギーと信じる。日々出会い、日々学び 嫌いな言葉 マイペース 無責任

2012年12月30日日曜日

2012年を振り返る ほんの一部だけ・・・

毎年、いろんな事が起こるが、今年はある意味、劇的に変化を遂げた年であった。プライベートにおいても、ビジネスの組織においても、経営者としても・・・

プライベートは、おいておくとして、ビジネスについて触れてみる。

今年の冬、大きな決断をした。従業員をも不安がらせる人事の刷新をした。
やると決めた以上は、やるのだが、さすがに自分も「大丈夫か?」と不安になる一面を持ちながらの決断であった。決めた以上は自分を信じるしか無い。振り返ってはいけない。他人からもいろんな進言があったが、自分の考えをしっかり述べ説明をすることにより、理解し覚悟を持ってもらった。
覚悟をし決断した人間が、浮つけば周りは余計に不安になる。

結果としてそれは、大きな成果を生むことになる。
組織は人の集合体ということを充分に実感できる成果であった。

ほんの少しの人の入れ替え、配置換えで劇的に組織は変わる。
当然ただ入れ替えるだけでは駄目であるが、経営者が作りたい組織像をしっかり頭に描き、それを具体化する妥協を許さない人材の確保と配置で、あとはその意味をしっかり伝えることで組織は動く。これが舵を取ると言うことなんだと改めて実感した。

結果、自分の中でもやもやしていたものが吹っ飛んだ。
自分が望む、自己を後回しにするチームワークが生まれてきた。
人間は得てして、自分の損得を先に考えてしまう。
それを先に考えてしまうと、チームワークにはならない。形は出来ても中身が伴わない。
今年、後半からそのチームワークが目に見えだした。
従業員たちが自分たちで率先して動き出した。
そしてその結果が、年末にかけて現実のものとなっていく。どんどん受注に繋がっていく。

従業員のやったという達成感がこちらにも伝わってくる。

自分が望んでいたものはこれなんだ。簡単に見えるが、数十人の人間が一丸となるのは並大抵のことでは無い。
しかしひょんなきっかけと、そこからでてくる結果で人は変わる。

今年、初めて、すべての業務を終わらせてから忘年会をした。現場は動いていたが・・・
一人一人を回り、握手をした。今年のお礼と、来年もよろしくと・・・
かける言葉は月並みであるが、握り返してくる手には強い力を感じ、そして輝く笑顔があった。「来年もやりまっせー」「もっといきましょ」等々 今まで僕がかけていた言葉が従業員から発せられる。
すべては結果次第なのかも知れない。うまくいってるから笑顔なのかも知れない。うまく受注できてなければ、こんな笑顔も無かったのかも知れない。これから先、そんなこともあるだろう。
しかしその時こそ、僕の出番と考えている。何が駄目なのかを常に客観的に見つめるポジションに僕はいる。ちょっとした助言で正しいレールに自分たちで戻るきっかけをタイムリーに与えれば良い。
確実に大きく一歩前進した年をであった。さぁ こっそり次のステップへ

来年は、何かもっとすごいことが起こりそうな予感!!。

ありがとう2012年

芯となるもの

15年くらい前から他人に「軸がぶれない奴」あちこちで言われたが、軸ってなんなのか?俺は何がぶれないのかあまり深く考えずにいた。自分のことは自分が一番わからないと考えていたせいでもあるが、ここに来て、人に芯を持てというお話をしないといけなくなり改めて自分を客観的に見つめて見た。ぶれる人 軸がぶれない人

僕の軸は何なのか?

常に一貫して心掛けていること

どのような状況においても現場の状況や会話されてる状況を、おかれている状況の最大規模のグローバルな視線で客観的に判断をし、行動を起こす。自分にとって大事なものではなく、世間にとって大事なものは何なのか?


最大規模とは、奈良のお話であれば奈良人として、
ただ奈良のお話であっても、日本の中の奈良というくくりであれば、日本人として物事を考える。

自分が一番正しいとは考えないが、客観的目線に立つということは視野を大きく広げることに繋がり。理想的総論の核心をつくことができる。
各論でくる意見の中で、ずれているものや個人の意見でしかないものなどがよく目に尽くし、何がずれているのかすぐにわかる。指摘もしやすい。反撃しやすい

各論をしゃべる時も、客観的総論を抑えているため説得力が非常に強い。

以上のようなことだろうか。

2012年12月18日火曜日

落語から学ぶ人の先入観

皆さんは落語はお好きだろうか?

昔、とある上方落語家が言ってたことを思い出した。

「落語って、たまに3人、4人が登場するイレギュラーもありますけど、だいたいがその瞬間の登場人物って2人でしょ」

「大家さん、ととぼけた店子といったように・・・」

「いわばそれを、一人で、二役を演じるわけです」

「その二人の違いを表現すのに、顔を左右に振りわける。話し言葉を変える。声のトーンを変える」

「だいたいこの三つで表現するんですよ」

「でもね、ズーーーっとその三つで表現してるかと言えばそうではないんですよ」

「当然最初は、その三つを使います。でもね、お客さんが話に入り込んできてくれた頃から、二つにしちゃうんですよ」

「手抜きっちゃー手抜きかもしれませんが、これも芸のうちですよ」


では、何を抜くのか?

実は声のトーンは、二役とも一緒になってると言うんです。当然、演目によっちゃそれができないものもあるそうですが、(「裁ち切れ線香」のようなストーリーで、声のトーンが一緒なら確かにすぐにばれますわな)コミカルな演目は得てしてそうなるそうです。

ではなぜばれないのか?

最初の導入の段階で、お客様が話に入り込んだ時点で、実はお客の中にに登場人物の先入観ができているから少々変わろうが、最初の形で聞いてもらえる。というのだ。

些細なことかもしれないが、これは、我々実社会を巧みに生き抜くいい実例ではないか!

前回も八方美人型営業のお話で書いたが、実は、自分をコントロールし演じると言うのはただならぬパワーが必要なのだ。

たとえば、一時間の接客において、最後まで演じるのは不可能に近い。もし演じきっても、相当の脱力感が残るくらいエネルギーを要する。

ここで必要なのが、落語から学ぶ、先入観である。

顧客が、自分に興味を示し、うまく入り込んできてくれれば、自然と自分のスタイルに変えてしまう。


話題をいきなり変えるというのは、特に相手がいやがるような話をするようなことはもってのほかであるが、ストーリーはそのままに、自分が使いやすい言葉遣いに自然と変えていくなどは、大丈夫な部類に入るのではないかと思う。

自分流に変える内容によるが、顧客の先入観の存在する限り、そんな営業のやり方も、一つの効率ではないかと思う。

決して手抜きではないですよ あしからず・・・

これも営業手法の一つですよ








2012年12月17日月曜日

八方美人は営業を制す

とかく八方美人は、悪い意味で使われる事が多い。

意味は少し違うかもしれないが、僕はこの言葉を、意見統一させる手法の一つとしてよく使う。

昔、ヒトラーなどに代表される独裁者、権力者が民衆に対して意思統一を図る方法として、よく使われたのは、民衆よりのも目線を上に置き、演説をする手法である。
当時の権力者の自宅などにあるバルコニーから集めた民衆に対して演説をする。今のベランダやバルコニーはその当時のな残りであるのだが、この方法は今でも良く使われている。
決して独裁者という訳では無いが、選挙などで、街宣車の上から訴えたりするのは、民衆に対して、しっかりと顔を見せ、その反応を見ながらしゃべる昔のスタイルを踏襲している。確かに、インパクトも強く、民衆の気持ちを引きつけると言うことで言えば費用対効果的に考えて有用な手法であろう。

当時は、貧困からの脱出を多くの民衆が望み、すがる気持ちで権力者に従った。民衆のほとんどが現状からの脱出を望む同じタイプの人間たちであった。
言わば、発信する側(権力者側)と、受信する側(民衆側)という二極の人間のみがその場には存在していた。故に権力者は、民衆側の一つのタイプに対してのみ発信をすれば全員の気持ちをつかむことが出来たのだ。

しかし時代は大きく前進し、人間の生活スタイルも多様化する中、人間の価値観も多極化してきた。
完全に人間は十人十色となっている。これは言われるまでも無く当たり前のことだ。同じ人間など存在しないのだから、生活にゆとりが出て来れば当たり前のことである。

それでは、多極化してきている人間に対して、今まで通りのバルコニー演説型で同じように全員の気持ちをつかむことが出来るのだろうか?

答えはNOだ

話し手が同じ表現で話をしても、受け手がそれぞれが持っている個性というフィルターを通して聞いてしまう。話し手が伝えたいことは、受けのフィルターの色によって変わってしまうのだ。それが今の時代である。

とあるセミナーを友人同士で聞いたとしよう。終了後、友人同士でセミナーの話について会話をしたとき、受け止め方が違うことが安易に露呈する。これが個性というフィルターである。

昔のバルコニー演説型であれば、参加者全員の賛意は尾等削りで得ることは出来ても繊細な部分では賛意を受けることが出来ないのが今の時代である。

では、どうすれば良いのか?

繊細な賛意を得るためには、賛意を得たい人達に、それぞれの個性に合わせたフィルターを使い意思を伝える以外に方法は無い。

では、フィルターとは何か?

当然決して物理的なものでは無い。

相手の個性、特性、性格を見抜くことである。そしてそれに合わせた言葉で説明をすれば、実は全員から同じような賛意を得ることが出来る。まるで八方美人のごとく・・・

俺を営業に置き換えればいい。

顧客は、当然、十人十色である。個性、特性、性格の分析をし、それに合わせた接し方をすれば、人間は必ず喜ぶ。

が、悲しいかな、それをちゃんと出来てる営業マンはあまり居ない。どうしてもバルコニー演説型営業マンが多い。

是非、八方美人型営業マンを目指してほしい。成功の鍵はそこにある。




2012年12月14日金曜日

自分の置かれているフィールド

地理的フィールド 組織的フィールド 人間的フィールド 精神的フィールド あげ出せばきりが無い


人間は、オンリーワンの生き物であり、二人として同じ人物はいない。

しかし、だからといって、たった一人で生きていくことはできない。

類は友を呼ぶという言葉があるように、よく似た人間同士が必ず自然と仲間になっていく。

その似たもの同士の団結が、一つの力となり勝利を勝ち取っていく。

そのフィールドは、水平方向に無限に存在する。先ほど書いたように、人間が生活する上で必要な要素の分だけフィールドは存在する。それだけ類は友を呼ぶ集まりがあると考えてもいい。

ただそれだけではない。意識のレベル、モチベーションを縦軸においたとき、垂直方向にも存在しているのだ。

もしかしたらそれは、全く別の要素として見られてるかもしれないが、同じ要素で意識レベルの違いで必ず存在している。

常に上のフィールドを見てみたい。そこには必ず次に自分が目指すべき目標があるはずだ。

常にそんな行動を継続していきたい。







青春とは

とある、お会いしたこともない会社の会長さんがプレゼントしてくださいました。




「青春とは」  原作誌 サムエル・ウルマン 自由訳 新井 満 



青春とは、真の 青春とは

若き 肉体のなかに あるのではなく

若き 精神のなかにこそ ある

薔薇色の頬 真赤な唇 しなやかな身体

そういうものは たいした問題ではない

問題にすべきは強い意思

ゆたかな想像力 もえあがる情熱

そういうものが あるか ないか

こんこんと湧きでる 泉のように

あなたの精神は

今日も新鮮だろうか

いきいきしているだろうか

臆病な精神のなかに

青春は ない

大いなる愛のためにか発揮される

勇気と冒険心のなかにこそ

青春はある


臆病な二十歳がいる 既にして 老人

勇気ある六十歳がいる

青春まっただなか

歳を重ねただけで 人は老いない

夢を失ったとき 初めて老いる

歳月は 人にしわを刻むが

情熱を失ったとき 精神は

しわだらけになる

苦悩 恐怖 自己嫌悪

それらは 精神をしぼませ

ゴミくずに変えてしまう

誰にとっても大切なもの

それは 感動する心

次は何が起こるのだろうと

目を輝かせる 子供のような好奇心

胸をときめかせ未知の人生に

挑戦する喜び


さぁ目をとじて

思い浮かべてみよう

あなたの心のなかにある

無線基地

青空高くそびえ立つ たくさんの

光輝くアンテナ

アンテナは受信するだろう

偉大な人々からのメッセージ

崇高な自然からのメッセージ

世界がどんなに美しく

驚きにみちているか

生きることが

どんなに素晴らしいか

勇気と希望 ほほえみを忘れず

いのちのメッセージを

受信しつづけるかぎり

あなたはいつまでも 青年



だが もしあなたが

心のアンテナが 倒れ

雪のように冷たい皮肉と

氷のように頑固な失望に

おおわれるならば

たとえ二十歳であっても

あなたは立派な

老人

あなたの心のアンテナが

今日も青空高くそびえ立ち

いのちのメッセージを

受信し続けるかぎり

たとえ八十歳であっやとしても

あなたはつねに 青春

青春とは 真の 青春とは

若き 肉体の中にあるのではなく

若き 精神のなかにこそ ある




2012年12月7日金曜日

自分の特性

あの人の頑張りはすごい。私はまだまだできていない。だから私はもっと頑張れる。

よく聞いたり目にしたりしますよね。

自分を相手の秤で評価している話だ。

それって本当にできると思う?


例えば、全く同じ力で、つねられたとしよう。一人の人は痛いと言った。もう一人の人は全然痛くないと言った。どちらが正しいのか?
当たり前であるがどちらも正しいのだ。
本当に痛くないのか、我慢をしているのかは別として、その人の主観で痛いかどうかは決まる。

人それぞれ、違った特性を持ち、全く同じ人間がいないのにもかかわらず、ついつい、同じと考え、相手を基準に考え自分を奮起させようとする。特に頑張り屋さんに多い。

自分の痛さのレベルは自分しかわからない。相手の痛さのレベルに合わせることなんかできない。

自分ができる範囲がある。それを越えればオーバーワークになり、体は壊れる。

では、自分よりも頑張ってると映る人を自分は超えることはできないのか?

答えは、NOである。

一人一人特性が違うのだから、その特性にあった方法で頑張ればいいのだ。

同じプロセスで進む必要なんてない。目指すところが同じであれば、そこに通じるプロセスが違っていても構わないのだ。

同じプロセスを踏もうとするから無理がでる。

大事なのは自分の特性や体の調子をしっかりと見極めることが大切である。それがわからなければ、自分にあった正しい道は見えてこない。

あれ?「体大事にしましょうね」ということが言いたかったんだけどなぁ