2012年5月30日水曜日

人間の選択(決定論)

一つのことを決定する上に置いても以下のような決定の仕方がある。
とある、HPからの引用である。


ほら今貴方がしたけってい、どれに当てはまるか考えてみて!!


そして、どれが一番正しいのかも!




人が、物事を決定する過程は、極めて複雑である。(それを、毎 日毎日、たくさんの決定を瞬時に行っているから、たいしたものだ 。もちろん、機械的にみれば、二足歩行もたいしたものだが、日々 、何の問題もなく行っている。) 
特に、投票行動に限って分類してみた。(ちょっと、適当だから、 まだあるかもしれない。)


 <習慣的決定> 
 以前の決定の踏襲である。(実は、多くの決定は、このバリエー ションで、無意識化されて、行われる。) 


<好悪的決定>
 感情的な決定である。あの人が好かん。とか、こっちのデザインの 方が好きというものだ。 これは、総合印象判断とも言えるが、理屈ではない。スキャンダル では、ここが動く場合もある。かっこいいから…、テレビで良く見 る、などは典型。(女性に多いとされるが、本当は、男も多い判断 基準である。)


 <被誘導・依存型決定> 
自己判断より、他者の判断(自分が尊敬する人など)を決定材料に すること。(宗教で、教祖がやれと言えば、何でもハイと行動する のもこれにあたる。)知り合いに頼まれた、あの人が言ってるから 、などもそう。 


<一部利益選考型決定> 
自分が属する集団の利益等のみを考慮して決定する。(医師会?農 協?労組?など、特定組織に属し、一部自己利益に合致するかだけ を問題に、判断する場合。) 


<待望的決定>
 これも雰囲気派に属するが、よく「風が吹く」などの表現があるよ うに、大きな力になることが、多い。(つまりは、<変化>の為の <変化>を期待して、行動する。)現状が、駄目と思えば、変化さ せるしかないではないか。


 <非変化的決定>
 上とは、逆に、大きく変化することを恐れることから、消極的現状 維持の決定をする。 「知らない危険よりは、今ある危険の方がいい…。」リスクを取ら ない日本人の気質の根底には、これがある。日本では、上からの革 命(聖徳太子、織田信長のもたらした近代、明治維新、太平洋戦争 敗戦等は、すべて、上部組織による変化である。)しかないという のも、否定できない。


 <推論的決定> 
論理的に考えようとする人間は、推論するわけだが、今度は、決定 対象が、常に全般として、要求を満たすわけではない。(つまり、 論理的帰結と現実の齟齬が常に生じる。) 故に、この場合、自身で優先順位と、優先項目で扱われる「数点の 事項」での重要度(政策の具体策)を数値的判断?(あるいは、直 感で)として、包括し直す必要が出てくる。


 いわば、<完全>なものなど無いのだから、自分の中で、何が重要 なのかを知らなければ、<選択決定>はできないのである。 自分を知ること。それ以外に判断の基準などない。

自分の分析

人間はほとんどの人が自分は正しいと思って生きている生き物らしい。

それはそれで良いのだが、では自分が正しいかどうかのチェックはどうなっているのだろうか?
チェックすることなく正しいと思っているのだろうか?正しいかどうかは、自分の経験の中からしか生まれてこず、なおかつ自分の行動を客観的に照らし合わせて初めて解るものだと思う。
自分を客観的に分析してますか?自分の良いところ悪いところを理由を付けて客観的に説明できますか?確かに難しいことではあるし大変なことである。しかし、やるとやらないではその人間の生き方が月とすっぽんほど変わってくる。分析しない人にはそんなことも解らないだろうが……

そういう人って常に変に満足し、ちょっとしたイレギュラーに腹を立てる余裕のなさを感じる。常に客観的に自分をチェックしていきたい

2012年5月15日火曜日

「学ぶ」とは?

先日、東京表参道でTOCセミナーを受講してきた。その時の収穫をいくつかに分けて書いてみようと思う。

  まず、TOCとは、イスラエルの故エリヤフ ゴールドラット博士が提唱された制約理論と呼ばれるものである。 詳細は、hpで検索して欲しい。
  弊社が取り組んでいるCCPM(クリティカル チェーン プログラム マネジメント)もこの制約理論に乗っ取った、工程管理の手法である。 こちらも、hpで検索して見てください。 

さて、セミナーのお話。講師は、岸良裕司氏 ゴールドラット研究所の日本代表研究員である。
受講生は、ほぼ一般の方々のような感じであり、内容的にも初級というような感じであった。
その中で、自分にいつも肝に命じ、実践をし、人にも言い続けていることが話に出た。
  それは、「学ぶ」ということである。 皆さんにとって「学ぶ」とは、どういう状態をいうのだろうか?多分、ほとんどの人たちは、本や、新聞、デジタルメデイアなどから知識を得ること。子供や学生たちにとっては、学問を身につけること。人生の生き方を身につけること。などを「学ぶ」と言っている。
 確かにそれは間違いではない。

ただし、「学ぶ=知識を得る」という意味では間違いではないであろうが、「学ぶ=身につける」という見方をすると少々違ってくる。学ぶという行為をしたことによって、それは本当に見についたのかということである。
実は残念ながらほとんどの人達は、身にはなっていない。

それを証明する簡単な方法がある。

 その方法とは、学んだことを行動に起こして見て欲しい。たぶん、行動に起こせる人はほとんどいてないのではないだろうか?学べたけどのように行動したらいいかわからないというのが本音であろう。

 次に他人に教えてみるという行為である。これもできる人がいないのだ。実は、自分で行動できないのだから人に教えることなどできるはずもない。じっと自分の胸に手を当てて考えて欲しい。ビジネス書を読んで、その内容をどれだけ実践できているか?その内容をどれだけ他人に説明できたか?学問でも一緒である。自分が理解したとしている内容でも、試験になると解けなかった記憶はないですか?人に説明しようとして、あれ?ってなったことないですか?思い当たる人は多いはずである。それは単に、学んだ後、実践をしてないために、充分に理解ができていないのだ。
 学んだということで満足してはいけないのだ。学び、自分が良いと思ったことは100%実践をする。そして、それがどれだけ理解できているかは、人に説明してみれば良い。そうすれば簡単に自分の理解度(いかに身についているか)がわかるのだ。今回のセミナーでは、もう一つ上を教えてくれた。

それは、「”人が人に教えることができるように”教える」ということである。これは普通の理解ではなかなか難しい。しかしそこまでできれば、完全に身につけたということになる。 学ぶ。👉行動しながら学ぶ👉人に教える👉人が教えることができるように教える。

 このように「学ぶ」という行為は、最後までいかなければ、完全に自分の身についたと言えないのだ。

2012年5月11日金曜日

高校新卒者採用に思う

今年も4月に新卒採用の新入社員が入ってきた。と、同時に、来年度の新卒採用に向けた動きが活発化する。早くも担当者はそれぞれの学校に出向き接触を持ちだした。学生たちにとっては、ほとんどの人達が人生の大きな分岐点を迎える。現在は、まるで当たり前のように転職をする人もいるので、大きな分岐点でないのかもしれないが、学生から社会人という意味ではやはり大きな分岐点であろう。それだけ大きな出来事であるのだが、高校の就職担当者に疑問を感じることがある。当然これは就職担当者全員に当てはまることではないということを先に断っておく。何に疑問を感じるかというと、就職斡旋の基本的な考え方に対してである。ここ数年、連続して高校から新卒者を少数ではあるが採用してきた。が、定着しないのである。早ければ数ヶ月で辞めてしまう。社風が今の時代に合わないのか?新入社員教育が上手くないのか?先輩後輩の人間関係の問題なのか?いろんなことを考えて見た。もしそこに原因があるなら高卒以外の社員もやめていって当たり前である。そこで、やめていく高校新卒者に理由を聞いて見た。何と「自分がやりたいのはこんな仕事ではなかった」と言うのだ。大会社で、配属先が自分の思っていたところではなかったと言うのであればわかる。しかし弊社のような会社で、技術者として採用すれば仕事は現場管理でしかない。求人票にもきっちりと記入している。面接でも内容はきっちりと説明しているつもりだ。なのに・・・である。昔に比べ、最近では成績の良い学生を送り込んでくれていることは確かである。それはそれで嬉しいことであるが、仕事の内容も理解することなく、応募してくる。今の若者の風潮なのかとも考えたが、理由を聞くに連れ、原因は違うところにあることがわかった。何と就職担当者が説明していないのだ。また、学生たちに何がしたいのか?何になりたいのか?という聞き取りもろくにしていないようである。「君の成績はこうだから中村建設を受けなさい。」という安直な指導らしい。現場管理とは何かもわからず、うちの会社はどのような仕事をしてるかもわからないまま送り込んでくる。これでは定着するはずがない。面接で確認をしても、面接指導を受けてきているので、自分の意思ではなく面接をそつなくこなしてしまうのだ。何とも言いようのない腹立たしさを感じる。就職さえさせてしまえば良いのか?本人の意志は関係ないのか?引き受ける会社側からすれば、経営計画にのっとって採用人数を決めているのだ。こんなことであれば計画もあったものではない。もっと可哀想なのは本人達だ。それだけ大きな問題であるということを就職担当者は理解して欲しい。最後にもう一度断っておくが、就職担当者全員ではないと申し上げる

2012年5月9日水曜日

バランス

いつも普通に使ってる言葉であるが、考えてみるとものすごく繊細な言葉である。「バランスがとれている」と「バランスが崩れる」では、大きな違いがある。これは五分五分の可能性ではない。「バランスがとれる」のはほんの一点を指し、それ以外はすべてバランスが崩れていると言うことになる。だからといって、崩れていて良いと言うことはほとんど無い。身体にしても一つどこかおかしくなると、他にも影響は出てくる。おなかが痛いと痛いだけではなく、憂鬱になる。頭痛が起これば肩こりを起こす人も居る。というように、一つが崩れれば、他にも大きな影響が出てくる。精神的には、わかりにくいかもしれないがもっと大きな影響を及ぼすのだろう。連れ合いを無くした男性は元気をなくし、女性は元気になるこれもバランスの崩れなのだろう。女性の元気になるのは良くないことではないが・・・
では、総てにおいてバランスがとれていると言うことは良いことなのだろうか?バランスがとれる=安定 である。どうもこれには反論したくなる。安定では成長はないと考える自分からすると、バランスが崩れている方が良いのか?なんか変だ!頭がまとまらない。終わり

2012年5月7日月曜日

奈良の経済界に思う

今日はこれから、二年ぶりに会うとある奈良の運送会社の社長さんと某銀行の支店長とご一緒する。あえて名前は避けるが、この社長、実は業界では日本の最先端を走っている社長である。当然のことであるが、建設業と同様、非常に厳しい運送業界にあって会社を引き継がれた後、風雲児のごとく会社を変革し、今では、日本の運送業界のとある分野の先頭を走っておられる。私自身が参加している大学の研究会でお会いしたのだが、会社の取り組方や、本人の経営理念ををお聞きして、感銘を受けた。奈良にもまだまだたくさん彼のように頑張っておられる若手経営者がたくさんいる。残念なのは、奈良ではこの社長をはじめ、大活躍の経営者の話を聞いたことがない。このような方の名前を聞くのは、ほぼ間違いなく、県外にいるときである。県外では有名なのに奈良ではなぜ話題にならないのか?他の地域では絶対に見られない奈良特有の文化なのか?奈良の人たちが知らないのが原因だ。本人のPRの仕方もあるかもしれないが、奈良の経済界のあり方の問題でもあると思う。昔から、奈良は日本の経済界に対して非常の多くの人物を輩出し、知られては居ないが多くの大企業も創出してきた地域である。大和ハウス、積水ハウスグループなどは現時点の最たるものである。当然地域性や、経済圏の問題もあるが、会社が大きくなるとほとんどの会社が県外に出て行ってしまう。数年前の森精機もそうであった。会社が大きくなる以上、企業として奈良を離れていくというのはある意味致し方ないことかもしれないが、奈良の経済界が、その彼らを奈良の中に巻き込もうという行動は過去からも見られない。大きな会社の支店長クラスとつきあいをしていてもそれはおつきあいを頂いているだけで奈良の経済界に取り込んだということにはならない。彼のような人材をしっかり奈良の経済界のトップとして育て上げなければ奈良の経済に未来はない。もういい加減、貢献度と横並びのおつきあいの経済界は辞めようよ。また次回も、モノレールから羽田空港の国際線トラックターミナルに彼の会社のトラックがずらりと並んでいるのを見るのが楽しみでしようがない。

2012年5月2日水曜日

会社で飲むもの

大概がほうじ茶かコーヒーである。特にほうじ茶が多い。コーヒーも飲むのだがコーヒーは苦手だ。
顧客訪問などで午前中にコーヒーが2杯出てしまうと、昼からの体調はぐったりになってしまう。昼ご飯もおいしくない。だからといって、たまにコーヒーが飲みたくなる事がある。何がダメなんだろうか?カフェインはお茶にも入ってると思うし・・・不思議だ。でもコーヒー駄目な人って多いですよね。そんな人たちってどんな理由で駄目なんだろうか?自分が駄目なだけに余計に知りたい。そんな人たちって、紅茶ですか?お茶ですか?水ですか?合間に何を飲んでるんだろう?考え出したらキリがないや。ちなみに、自宅では、お茶もコーヒーも飲みません。ほとんど水です。考えたら俺って飲み物のレパートリー少ないわ。ほうじ茶をすすりながらふと思ったことです。