2012年4月23日月曜日

混沌の時代

以下は奈良新聞の依頼を受け2002年元旦に奈良新聞に掲載された文章の抜粋です。ご一読を・・・
国は今、21世紀の日本の姿を確立するために地方分権や構造改革に着手している。その中でも、私たちに住民に影響の大きい地方分権は、市町村の広域合併に代表されるように、中央集権、行政主導からのトップダウンではなく、地域住民からのボトムアップで推進されようとしている。20世紀の社会は個人の専門分野を重視し、その集合体が画一的な社会を構成し、それが日本のパワーにつながっていた。しかし、地域住民からのボトムアップが21世紀の社会を構築するならば、今までのような専門分野重視の考え方では それは無理である。21世紀の日本社会は、ボトムアップによる地域の個性があふれる社会の構築を行うという方向に進もうとしている。そのためには住民一人 ひとりが、アンテナを張り巡らし人間としての資質を高め、あらゆることの判断と行動がもとめられる。過去のように自分の専門以外は他人任せではいけない。 個人がグローバルな視点で自分の住むまちについて考え、その考えの基にまちに役立つ行動を起こすことこそ、これからの私たちの役目であり21世紀の日本のあり方であると考える。
「自分が何者なのか、自分はどこに行こうとしているのか」皆さんは、自分に問いかけをしたことがあるだろうか?これからの奈良が、日本 が、世界がどこに行くのか、どこに行こうとしているのか、私たちにも確信がもてない時代であるからこそ、個人が自分の考えと行動に確信を持たなければなら ない時代に来ていると思う。混沌の時代を切り開くのは誰かがしてくれるのではない。私たち一人ひとりがやらなければならないのだ。

教育論


世の中は凶悪犯罪の低年齢化、親の幼児虐待など昔では考えられない犯罪が非常に多い。なぜなのか?社会が多様化しているなかで一概に一言でいう事はできないが、やはり教育に問題がある。ここでいう教育とは学校教育の事ではなく親の子供に対する教育である。
昔、高校の時の先生が生徒に向かってこんな話をされた。僕が通っていた学校は進学校であったためその辺も含めての事であろうが、その子供の人生は小学校二年生で決まるという。そしてその次は中学二年生
その次は高校二年生というのだ。今になって思うと非常に的を得た考えだなぁと思う。中学二年生と高校二年生は取りも直さず来年進学を迎える。その方向性をシッカリ決めなければならないとしという事である。自分は何になりたいのか。自分の人生の目的は何なのか?を明確にして自分の進めき方向をシッカリと自分で決めなければならない年である。ここで大事なのは、親が決めてはならないという事である。顔を突っ込むなという事ではない。中学生くらいでは社会的知識が少ないのが当たり前であるからそのための補助はしなければならない。ただ、親の思う方向に誘導するような知識を与えてはいけない。そんなアホなとお思いかもしれないが、中学高校は一番多感な時期である。そして一日一日、物理的も精神的にも成長を遂げる。下手な誘導は反発を生む。するべき事は、社会的知識の提供とやりたい事を見つける手助けのみである。一番やってはいけないのは、理由もちゃんと説明する事無く、親がその子の進路を決めてしまう事だ。理由があればまだ良いのだが・・・・
もし目的をシッカリ持てば後はそれに突き進む様に見守るのみである。口も手もあまり出す必要はない。目的を持った人間はそこからどんどん強くなる。道徳的に外れない様にだけ見守っていれば良い。外れそうになった時だけ補正してやれば良い。
 さて、これで中学高校は以上で説明できたと思う。では、小学校二年生で決まるという事はどういう事なのか。これは自分で理解したのは、30歳を超えた充分に大人になり自分に子供ができた時くらいである。今はあまりわからないが、当時は
ゆとり教育という言葉からなのか、自由奔放に育てる、叱る事はしない、やりたい様にやらせる。と言った様な事をいう親が大勢を占めていた。僕はそれに変な違和感を感じ、テレビニュースで凶悪犯罪の低年齢化を見ていたのだ。この原因って、社会情勢だけなのか?と疑問を抱き、結論は親の教育にあると考える様になった。

子供は生まれた時には白紙の状態で生まれて来る。これはどの様な家庭に生まれたとしても平等に与えられている。誰一人として知識を持って生まれて来る子供はいないのである。その真っ白な子供に日本人として、日本の文化のなかで生きて行く知識をつけるのは間違いなく子供達自信であるが、そのあふれる情報の良し悪しすらわからないのも白紙の子供達である。その様な子供達を自由奔放に伸び伸びという言葉の元、良し悪しを教える事無く育てればどうなるか?答えは歴然!大人になっても物事の判断が付かない大人がそこに一人出来上がってしまうわけだ。結論を申し上げると、子供は物心がつく前まではシッカリとしつけなければならない。赤ちゃんとは白紙で生まれて来た時は動物と同じである。それを人間に仕上げるのは、産まれたと同時に人間としてのしつけが始まるからである。時には叱る事も大事である。そしてシッカリとしつけられた子供は、物心がついて自分で行動し出しても常識を外す事はない(しつける親が常識を知ってるという前提ですけど)。勝手に親のいう事を聞ける子になっている。
逆に自由奔放に育てた子供は、常識、道徳がわからないため人を思いやる事ができず非常識な行動で人に迷惑をかけてしまう。凶悪犯罪の低年齢化はこうやって引き起こされるのだ。そして親は言う「うちの子に限って」と・・・自由奔放という言葉の育児放棄の結末である。
そのしつけの上限が小学校二年生という事なんだ。その時の子供の行動でその子供の人生は決まってしまう。あっ、子供の行動とは、家族以外に対する行動ですからね。どの様に育てられても小学校二年生くらいまでは家族に対しては甘えますから...親に対する判断は全く無意味です。
できてるかどうかの答えは、それから以降自分の子供が答えです。
自分の人生と一緒で、一人の人間(こども)に対する教育はやり直しが聞かないものだからシッカリと責任を持って教育しましょ。だからと言ってびびってはダメ!
できてる親は結果として後ものすごく楽だから!子供はいい意味で親のてからこぼれる事は無く、自分の人生をしっかり見つめ目的をもって生きて行くよ。
自由奔放は物心がつき多感になってから!それまではしっかりとしつけ、しっかりと叱る事が大事。

叱る事と怒る事は全く別!
「叱る」は相手を思い相手の行動を社会常識に合わせる様に促す行為
「怒る」は単なる自分の感情の押し付け
全く違うでしょ。

余談ですが、味覚も小学2年生で確立されるらしいすよ

やり直しのきく人生?

ジョギング中「やり直しのきく社会をめざす」と言う内容が書かれた某政党のポスターを見た。人生ってやり直しきくんですか?僕は絶対にきかないと思う。だからこそ自分の行動にしっかりと責任と覚悟を持ち、今の時間を大切に生きなければならない。やり直せるなんてまやかしでしかない。リセットはゲームだけのも。一度経験してしまうと、未経験の自分に戻ることはできないんだから・・・やり直しなんてあり得ない。子供に教えるのは、やり直しではなく覚悟と責任と今と言う時間の大切さだ!!

神とは?

数年前から、一日参りを辞めた。いつも、一日の早朝、伏見稲荷の末広さん、末光さん、金光さんと、三つの神さんをお参りしていた。しかしとあるきっかけから、会社からも神棚を無くし、そのタイミングで一日参りを辞めた。物心がついたとき、もっと古くは、祖父の代からずーっと続けてきた中村家のしきたりであった。祖父は、奈良から自転車で通っていたと聞いた。そんなしきたりを断ち切った。相当の覚悟はあった。
。決して、神仏信仰でなくなったわけではない。初詣でもするし、伊勢神宮は今でも年数回お参りをする。伏見稲荷もお参りをしている。では、一日参りを辞めたふっとしたきっかけってなんなのか?「神頼みってなに?」と思ったことからである。結局、神さん参りは自分へのお参りで、定めた目的にちゃんと向かっているかどうかの確認であり、 初詣はお願いでは無く、自分への1年間のコミットメントであるのではないか?と気がついたからである。であれば、わざわざ神さんに向かう必要は無い。自分に向かえば良いのである。いわば神さん参りは自分参りである。怖がる必要はない。一度断ち切ってみようということである。それで進むべき方角がより明確になるのではないか?、結果として、より目的が明確になり、冷静な判断ができるようになった。

神様とはそういう存在でいいのだと思う。
決して軽い気持
ちで言ってるのではない。。神は自分の中にいることが言いたいだけである。

2012年4月20日金曜日

人間は地球という生物の遺伝子

遅ればせながら、今になり、漫画「宇宙兄弟」を読んでいる。読者の方はご存じかもしれないが、第3巻で、ぐぐっと来るフレーズが二つあった。その一つを紹介したい。「人間は地球という生物の遺伝子に過ぎない」というものである。そんな見方ができてる人間はどれだけ居てるのであろうか?おおむね人間は無意識のうちに自己中心になりがちである。私たちの星をも、もしかしたら自分が生活をする場所という捕まえ方しかしていないのではないだろうか?宇宙があり、銀河があり、太陽があり、地球があり、その一つの点として私たちは生きている。人類全員が、宇宙というエリアの中で地球という生物が人間などの遺伝子を持って生きているという考えを持って日々送ることができれば、遺伝子である人間が起こしている問題など一発で解決してしまう。そんな些細な事なのだ。

2012年4月19日木曜日

子どもが親を超えるとき

親は何を思って子供に教育を受けさせているのか?進学校であるからだろうか?確かに教育熱心な親が多い・・というかほとんどがそうである。しかし、親はどのような理由で子どもに勉強をさせているのか不思議でしょうがない。明らかに、国公立などの良い大学に入ることを目的においている親が非常に多いと感じる。本当にそれで良いのか?子どもの意志は?確かに中学1,2年生に勉強をする目的を聞くのは無理かもしれないが、高校2,3年生になって社会に出てからの目的を持っていないのはこの時代ある意味問題である。良い大学に入るのは、社会に出てからの自分の目的に対する手段であって、大学に入ることが目的ではない。子どもが社会人として自分を超えて成長する礎を気づいてあげることが、教育であると感じる。
子どもが、親を超える要因は非常にたくさんある。子どもの身長が自分を超えたときなどは、悔しさとうれしさが複雑に交錯する。同じように、社会において子どもが自分を超えたと実感したときが一番複雑であるかもしれないが、喜びでもあり、それが真の子育ての終着点ではないのだろうか?子どもが独立すれば確かに物理的子育ては終了する。子育ての成果が出るときは、子が親を超えたときであり、そこで真の子育てが完了すると感じる。それを感じる事ができない(子どもが親を超えない)親が非常に多すぎるが・・・
少々偏った考え方であるかもしれないが・・・・

人間の観念

人間の行動の善し悪しってどのように決めているのか?人は行動のすべてにおいて「やって良いこととやってはいけないこと」の判断をしている。
では、その判断基準ってどこで学んだのか?少なくとも生まれたての赤ちゃんにはその知識はない。生まれたての子供は、無の状態にある。その無の状態に、生まれた瞬間から、いろいろな情報がインプットされる。その長年にわたって蓄積された情報と、今自分が置かれている立場を考慮して無意識の間に善し悪しの判断をつけているのだ。これが人間の観念である。「これをしたら駄目、あれをしたら怒られる」というのは観念によってもたらされている。観念はある意味、常識を越えない(無理をしない)生活をしていく上において非常に大事なものである。しかし観念には、人間の夢を阻害する要因がある。自分に対する思い込みによる観念である。
たとえば犬が嫌いな人がいるとする。その人はどのような種類の犬を見ても反射的に嫌いだという判断の下で行動を起こす。しかしこれでは、いつまでたっても犬と接触する機会がなく新しい自分を見つけることはできない。中には努力して犬と接触しようとする人がいる。それは間違いではないが、その人の努力であって根本の解決にはつながらない。その人が犬が嫌いになった原因が必ずどこかにあるのである。遠い昔の話でその原因を忘れていたとしても必ず原因はある。その原因を見つけ、自分でそれを理解したとき犬嫌いを解決する糸口を見つけたことにある。その原因を見つけてこそ犬が嫌いだという思い込みからの脱却であり観念を打ち破ることにつながる。
少々例えがおかしかったかもしれないが、「してはいけない」という理由を自分でとことんまで問い詰めてみることが非常に大事である。その行き着くところが真実であり、その真実を見つめて、善し悪しを判断すればいいのである。そこに出てくる答えによっては、「してはいけないこと」ではなくなる可能性が充分ある。
人は観念を自ら打ち破ることができれば、新しい道が見え、その道が広がり、大きな野望が生まれる。これこそ人間が知らぬ間に忘れてしまった自分の夢への再挑戦である。「現状を打破して当たらし道を切り開く」という言葉もこれと同じだ。自分の周りに分厚く取り巻いている観念のバリアをいち早く打ち破ることこそ夢を現実のものとする近道である。
タダ怖いのは、先でも述べたように、正しい善し悪しの判断も観念が担っているため、観念を破ることによって暴走してしまう恐れがある。だからといって恐れてはいけない、万が一暴走してもきちっと周りの人の意見を聞く耳を持ち合わせていれば脱線はしない。他人が暴走を必ず教えてくれる。
観念を正しくぶち破った人間の行動は、非常に大胆であり、かつ繊細であり、目標に向かってぶれることはない。本来の人間の姿はそこにあるのではないかと思う。

大手ゼネコンと地元ゼネコンの違い

何かにつけて、我々建設業は、大手だから・・・・とか、地元だから・・・・というような会話をよく耳にする。特に地方に行けば多いように感じる。実際、自分も、何かにつけて、比較してきた。高度経済成長から、バブル崩壊前までは、何でもかんでも、大手のやっていることは正しいと思いマネをしてきた。バブル崩壊後、現在に至ってもその考え方は一部の企業を除いて変わっているとは思えない。しかし本当にこれで正しいのだろうか?なぜマネをするのか?自分で考える能力がないから?ひとりで新しいことに取り組む自信がないから?たぶん建設業だけではないのだろうが、この傾向は建設業に非常に強いように思う。今現在、建設業が置かれている立場は非常に厳しい。にもかかわらず未だに自分たちの独自性を出さずにじっとしている。大手がバタバタ潰れて、これではだめだと解っていても策を出せずにいるのが現状である。大手ゼネコンは生き残りをかけ必死で改革を進めている。地元ゼネコンは、今その結果待ちなのだろうか?その結果を見てからまたマネをするつもりか?もうそれでは生き残れるはずもないのに・・・
では、大手ゼネコンと地元ゼネンコんってなにが違うんだ?資本力、従業員数、営業先、開発力、開発力や人間力からくる技術力・・・数え上げればきりがない。それほど大手と地元では違うのである。見た目は・・・・・・・
よく考えないといけないのは、いくら大きな企業であろうが、小零細企業であろうが、やっていることは同じであるということだ。営業先や、建てる建物の大きさは違えど、営業から、受注、引き渡しのプロセスはいう全く何も代わりはしない。にもかかわらず、大手をしたから見上げてしまっている。十分平行でいいのに・・・というか平行に見ないと何も生まれてこないのに・・・先に書いたように、大手のマネをするのであればそれでいい。しかし新しいものを作り出そうとすれば、下から見上げている姿勢では何も生まれない。
もっと極端に述べると、実は、改革を起こすのは大手ではなく、我々小零細企業のほうが有利であるのだ。
おおくの中堅ゼネコンが、会社をつぶした。なぜなのか?残っている会社と何が違うかったのか?確かに資本力や営業力の違いはあるだろう。しかし、それ以上に、時代を読み、問題意識を持ち、改革をしようとする判断と行動力の差ではないのか?もしそうであるなら間違いなく我々、小零細企業の方が有利なのだ。組織が小さい分、フットワーク軽く行動を起こすことができる。大手は組織が多きい分、フットワークが軽いとはいえない。時代の流れと、改革の流れのどちらが勝つかで、生きるか死ぬかが決まるのだ。
弊社は今、生き残りをかけいろんな取り組みをしている。そんな取り組みを大手ハウスメーカーなどか見学にくる。また別の取り組みでは、スーパーゼネコンがついこの前から全社に展開しだした取り組みと全く同じである。こんな小さな会社でも十分にできるんだ。それなりの努力は当然必要であるが、やる気になり覚悟を決めれば、大きい小さいなんて関係ない。堂々と渡り合えるという自信を持って何事にも取り組もう。

宇宙のでかさ、海の深さ 人間の小ささ

小さい頃から、宇宙に興味を持っていた。宇宙の端とは?端がないとはどういう事なのか?ビッグバンはどこで起こった?無とは何なのか?この宇宙とは別にまた別の宇宙は存在するのか?夜空を眺めながら、そんなことばかりを考えていた。現在の人間では説明できない事柄が宇宙には多数存在する。解明されている内容はともかく、宇宙は解明されていないことだらけである。だからこそ、人間の想像を豊かかにさせる。答えがそこにないのだからこそ人間がどのように想像しようが勝手なのだ。だからこそ楽しい。そんな宇宙にいずれいってみたいと考えていたし今もその思いは変わらない。今でこその日本人が宇宙に行く時代になってきたが、まだまだ我々がそこに足を踏み入れることは不可能であるし、私が望んでいるのはそんなものではない。そこから派生したのがパイロットへの憧れである。これも現実のものはならなかった。(視力の問題)。しかし、10数年前から宇宙と同じくらい神秘的な世界を見つけた。それが、海である。我々の地球にありながら人間に知られず解明されていないことはたくさんあるが、その中でも、海は神秘の宝庫である。分野は違うかもしれないが、人間が生活をしていくことができないということも含め宇宙と同じ未知の世界であるといってもよい。10数年前からダイビングを始めた。そのときにそれを実感した。たった20mの水深の世界であっても、それは宇宙と同じ、人間が生きていけない神秘の世界なのである。ダイビングをしていると、水槽を眺めるのとは違う魚たちの生態系がみられる。魚たちも我々を人間とは認識していない。当たり前といえば当たり前なのだが、泡をはく大きな生き物という存在なのだろうか?あまり逃げたりもしない。こんな浅瀬でも感動を覚えるくらい僕たちの知らない世界がある。日本の近くでも水深8,000mを超える場所(日本海溝)などがある。当然にそんな深度にダイビングで潜っていくことはできないが、。もうそうなると想像を絶する。光が全く届くことのない神秘のエリアである。全く宇宙に似ている。このように考えると自分たちの星のことすらほとんど知らずに生活をしている我々人間は本当にちっぽけな存在である。そんなことを認識するだけでも、価値観は変わり人間を大きくすることにつながるように気がする。あっ、間違えないで!知るというのは学問的に勉強をするということではないですからね・・・

ボランティア

変に無料がもてはやされ、世間で当たり前になってきている。でもね、一部では大きな問題にもなってるところがある。震災復旧のボランティアでもそう。ボランティアという言葉は、聞こえが良いが、よほど双方に理解し合える意識があるか、しっかりとしたルールがない限り問題は起こるもんなんです。与えて貰う側にだんだんとボランティアが当たり前になり、与える側に過度な要求がなされる。実際、受け入れ体制がまだ旨くできていない状況でボランティアに入り、仕事量があまりなく、「せっかく来てやったのに、仕事がこれだけでは・・・」と不満を漏らす人たち。挙げ句の果てに受け入れが和の行政やボランティアの不備を口にする。これどう思います?もってのほかでしょ。こんな人たちはボランティアという意味が全くわかっていない。これは震災ボランティアに関してだけのことではありません。観光ボランティアに対しても与えて貰う側が当たり前のごとく、案内が下手だの、しゃべりがダメだの評価をしてしまう。与えている側も、無料なんだからと高飛車になっている。総てとは言いませんが、これが実態なんでしょうね。得に日本人はそんな傾向が強いようです。日本人特有の人を思いやる気持ちとボランティアは全く別物ですから・・・一緒にしている人が多すぎると思いますよ。だから、プロが必要なんです。お金を貰う以上、プロ意識を持ってお客を楽しませようと努力しまくる。客側も、お金を払ってるんだから常識の範囲で代価を求めて当たり前。これが民主主義のあり方なんです。個人的には,組織で動くボランティアには、ボランティアという意識ではなく、利益を上げる会社と同じレベルの意識と責任感が必要でそれが無ければしてはいけないと思う。できる範囲で有志が集まってやってるボランティアは自己満足に陥りやすく危険極まりない。総てとは言いませんが、運営されてる皆さん気をつけてくださいよ。

多様化の中の画一化

建設産業は、機械化が遅れていると言われている。他の産業は、ほとんどが機械化され、商品の量産が決まると、ほとんど人の手がかからず完成され、ユーザーに渡る。消耗品などはそれで良いのかもしれないが、建設業が本当にそれを目指してよいのだろうか?現在の社会は効率化という機械化によりどんどん生産者とユーザーの間に人間がいなくなり、人間の多様化が進むのとは逆方向に画一化した商品を押しつけられるようになる。それが当たり前と感じるようになりどんどんメーカー主導の商品提供が進み、多様化してるはずなのに、画一化された生活環境の中で同じような生活を送っている。なんか変でしょ!
建設って、最終最後のオリジナル商品を提供する産業なのかもしれない。それを大切にしていかなければならないと思う。人間が総出でお客様のためにオリジナル商品を作る。最高の集団じゃないですか!営業はそれをコーディネートする役割でしょうね。頑張れ建設業!!
なかなか良いこと書くやん 俺!後で自分でシェアしよう!!

諦めと向上心

強く生きよと母の声

死ねと教えし父の顔

走る時代の歯車ならば

人にかくれて生きるもよし

これは、とある芸能人?(世界的映画監督と言えば誰か解るでしょ!)が昔、バイク事故を起こして、テレビに復帰する前に東京のとあるバーの壁に殴り書きをした詩です。私も良く覚えてますが、そのときはテレビで散々こき下ろされてました。そのときの腐った自分をを表現したものなでしょう。彼の今を想像するとこの言葉は信じられないような感じがします。この詩からは、頑張って生きようとか、見返してやるというような意味は全く感じ取れません。全く後ろ向きでしかありません。ただ、ここまでの絶望感って皆さん自分で体験したことありますか?必ず人間て、落ち込んで人に大変だ大変だと表現しながらでも、どこかに相反する考えをちょっと隠し持っているもんです。でもこの詩からはそんなことをこれっぽっちも感じられません。書かれた字体も完全に投げやりなんです。このあと、この芸能人にどのような変化があったかは解りませんが、これを機に彼は爆発的変化を遂げます。逆に行き着くところまで行ったから彼の現状があるのかもしれません。先が見えない状況でも諦めてはいけない。もし今どん底と思うなら必ず上を向く。タダ上を向かせるのは、今までの自分がやってきた履歴でしかないのだが・・・ 

人間の可能性

人間はアナログな生き物ではあるが、実はデジタル的な判断の集大成で存在している。

どういうこと?

と思われるだろう。

実は人間は一日に数万回の判断をしている。

YesかNoの判断をである。


 わかりやすところから説明してみよう。

朝起きるに際しても、起きるかどうか?の判断し、顔を洗うかどうか?朝ごはんを食べるかどうか?人間の行動を記しただけでもいくつもの行動を判断している。

その行動を細かく分析すると、そこにはYesかNoの判断があるのだ。

それを全て数えると一日に数万回の判断をしていることになるそうだ。

人間は昔から、無限の可能性があると言われている。

積極的な行動を起こせば、そこには想像をすることもできない世界が待っている。

ゆえに何事にも前向きに取り組めと・・・・

しかし選択の集大成が人間の行動であるならば決して無限ではない。

選択した数だけ、人生のゴールがあるということになる。

確かに無限と言っていいぐらいの数ではあるが・・・

人間には無限の可能性があるとはうまく言ったものだ。

 いずれにしても、神経質になる必要はないが、要所要所の判断が、自分の人生を大きく作用し、最終のゴール地点を大きく左右することは間違いない。

人生の重みをシッカリと感じながら毎日を生きよう

一人の力

人の力は対したものだ。

ほんの一部の人間を入れ替えるだけで、劇的に組織が変わる。

じゃあ今まではなぜその組織は動きを見せなかったのか?

理由はいくつもある。

馴れ合い

やる気のなさ

価値観

ちなみに命令は一切変えていない。

にもかかわらず、2、3ヶ月で劇的に変化を起こしている。

改めて組織を組む時の人選の大切さを実感。

会社が動くぞ!