自己紹介

自分の写真

ダイビングとバイクをこよなく愛する53歳のおやじ。じっとすることが嫌いな性格はいつまでたっても変わらず。なんにでも興味を示す雑食派 人との繋がりが自分のすべてのエネルギーと信じる。日々出会い、日々学び 嫌いな言葉 マイペース 無責任

2012年12月30日日曜日

2012年を振り返る ほんの一部だけ・・・

毎年、いろんな事が起こるが、今年はある意味、劇的に変化を遂げた年であった。プライベートにおいても、ビジネスの組織においても、経営者としても・・・

プライベートは、おいておくとして、ビジネスについて触れてみる。

今年の冬、大きな決断をした。従業員をも不安がらせる人事の刷新をした。
やると決めた以上は、やるのだが、さすがに自分も「大丈夫か?」と不安になる一面を持ちながらの決断であった。決めた以上は自分を信じるしか無い。振り返ってはいけない。他人からもいろんな進言があったが、自分の考えをしっかり述べ説明をすることにより、理解し覚悟を持ってもらった。
覚悟をし決断した人間が、浮つけば周りは余計に不安になる。

結果としてそれは、大きな成果を生むことになる。
組織は人の集合体ということを充分に実感できる成果であった。

ほんの少しの人の入れ替え、配置換えで劇的に組織は変わる。
当然ただ入れ替えるだけでは駄目であるが、経営者が作りたい組織像をしっかり頭に描き、それを具体化する妥協を許さない人材の確保と配置で、あとはその意味をしっかり伝えることで組織は動く。これが舵を取ると言うことなんだと改めて実感した。

結果、自分の中でもやもやしていたものが吹っ飛んだ。
自分が望む、自己を後回しにするチームワークが生まれてきた。
人間は得てして、自分の損得を先に考えてしまう。
それを先に考えてしまうと、チームワークにはならない。形は出来ても中身が伴わない。
今年、後半からそのチームワークが目に見えだした。
従業員たちが自分たちで率先して動き出した。
そしてその結果が、年末にかけて現実のものとなっていく。どんどん受注に繋がっていく。

従業員のやったという達成感がこちらにも伝わってくる。

自分が望んでいたものはこれなんだ。簡単に見えるが、数十人の人間が一丸となるのは並大抵のことでは無い。
しかしひょんなきっかけと、そこからでてくる結果で人は変わる。

今年、初めて、すべての業務を終わらせてから忘年会をした。現場は動いていたが・・・
一人一人を回り、握手をした。今年のお礼と、来年もよろしくと・・・
かける言葉は月並みであるが、握り返してくる手には強い力を感じ、そして輝く笑顔があった。「来年もやりまっせー」「もっといきましょ」等々 今まで僕がかけていた言葉が従業員から発せられる。
すべては結果次第なのかも知れない。うまくいってるから笑顔なのかも知れない。うまく受注できてなければ、こんな笑顔も無かったのかも知れない。これから先、そんなこともあるだろう。
しかしその時こそ、僕の出番と考えている。何が駄目なのかを常に客観的に見つめるポジションに僕はいる。ちょっとした助言で正しいレールに自分たちで戻るきっかけをタイムリーに与えれば良い。
確実に大きく一歩前進した年をであった。さぁ こっそり次のステップへ

来年は、何かもっとすごいことが起こりそうな予感!!。

ありがとう2012年

芯となるもの

15年くらい前から他人に「軸がぶれない奴」あちこちで言われたが、軸ってなんなのか?俺は何がぶれないのかあまり深く考えずにいた。自分のことは自分が一番わからないと考えていたせいでもあるが、ここに来て、人に芯を持てというお話をしないといけなくなり改めて自分を客観的に見つめて見た。ぶれる人 軸がぶれない人

僕の軸は何なのか?

常に一貫して心掛けていること

どのような状況においても現場の状況や会話されてる状況を、おかれている状況の最大規模のグローバルな視線で客観的に判断をし、行動を起こす。自分にとって大事なものではなく、世間にとって大事なものは何なのか?


最大規模とは、奈良のお話であれば奈良人として、
ただ奈良のお話であっても、日本の中の奈良というくくりであれば、日本人として物事を考える。

自分が一番正しいとは考えないが、客観的目線に立つということは視野を大きく広げることに繋がり。理想的総論の核心をつくことができる。
各論でくる意見の中で、ずれているものや個人の意見でしかないものなどがよく目に尽くし、何がずれているのかすぐにわかる。指摘もしやすい。反撃しやすい

各論をしゃべる時も、客観的総論を抑えているため説得力が非常に強い。

以上のようなことだろうか。

2012年12月18日火曜日

落語から学ぶ人の先入観

皆さんは落語はお好きだろうか?

昔、とある上方落語家が言ってたことを思い出した。

「落語って、たまに3人、4人が登場するイレギュラーもありますけど、だいたいがその瞬間の登場人物って2人でしょ」

「大家さん、ととぼけた店子といったように・・・」

「いわばそれを、一人で、二役を演じるわけです」

「その二人の違いを表現すのに、顔を左右に振りわける。話し言葉を変える。声のトーンを変える」

「だいたいこの三つで表現するんですよ」

「でもね、ズーーーっとその三つで表現してるかと言えばそうではないんですよ」

「当然最初は、その三つを使います。でもね、お客さんが話に入り込んできてくれた頃から、二つにしちゃうんですよ」

「手抜きっちゃー手抜きかもしれませんが、これも芸のうちですよ」


では、何を抜くのか?

実は声のトーンは、二役とも一緒になってると言うんです。当然、演目によっちゃそれができないものもあるそうですが、(「裁ち切れ線香」のようなストーリーで、声のトーンが一緒なら確かにすぐにばれますわな)コミカルな演目は得てしてそうなるそうです。

ではなぜばれないのか?

最初の導入の段階で、お客様が話に入り込んだ時点で、実はお客の中にに登場人物の先入観ができているから少々変わろうが、最初の形で聞いてもらえる。というのだ。

些細なことかもしれないが、これは、我々実社会を巧みに生き抜くいい実例ではないか!

前回も八方美人型営業のお話で書いたが、実は、自分をコントロールし演じると言うのはただならぬパワーが必要なのだ。

たとえば、一時間の接客において、最後まで演じるのは不可能に近い。もし演じきっても、相当の脱力感が残るくらいエネルギーを要する。

ここで必要なのが、落語から学ぶ、先入観である。

顧客が、自分に興味を示し、うまく入り込んできてくれれば、自然と自分のスタイルに変えてしまう。


話題をいきなり変えるというのは、特に相手がいやがるような話をするようなことはもってのほかであるが、ストーリーはそのままに、自分が使いやすい言葉遣いに自然と変えていくなどは、大丈夫な部類に入るのではないかと思う。

自分流に変える内容によるが、顧客の先入観の存在する限り、そんな営業のやり方も、一つの効率ではないかと思う。

決して手抜きではないですよ あしからず・・・

これも営業手法の一つですよ








2012年12月17日月曜日

八方美人は営業を制す

とかく八方美人は、悪い意味で使われる事が多い。

意味は少し違うかもしれないが、僕はこの言葉を、意見統一させる手法の一つとしてよく使う。

昔、ヒトラーなどに代表される独裁者、権力者が民衆に対して意思統一を図る方法として、よく使われたのは、民衆よりのも目線を上に置き、演説をする手法である。
当時の権力者の自宅などにあるバルコニーから集めた民衆に対して演説をする。今のベランダやバルコニーはその当時のな残りであるのだが、この方法は今でも良く使われている。
決して独裁者という訳では無いが、選挙などで、街宣車の上から訴えたりするのは、民衆に対して、しっかりと顔を見せ、その反応を見ながらしゃべる昔のスタイルを踏襲している。確かに、インパクトも強く、民衆の気持ちを引きつけると言うことで言えば費用対効果的に考えて有用な手法であろう。

当時は、貧困からの脱出を多くの民衆が望み、すがる気持ちで権力者に従った。民衆のほとんどが現状からの脱出を望む同じタイプの人間たちであった。
言わば、発信する側(権力者側)と、受信する側(民衆側)という二極の人間のみがその場には存在していた。故に権力者は、民衆側の一つのタイプに対してのみ発信をすれば全員の気持ちをつかむことが出来たのだ。

しかし時代は大きく前進し、人間の生活スタイルも多様化する中、人間の価値観も多極化してきた。
完全に人間は十人十色となっている。これは言われるまでも無く当たり前のことだ。同じ人間など存在しないのだから、生活にゆとりが出て来れば当たり前のことである。

それでは、多極化してきている人間に対して、今まで通りのバルコニー演説型で同じように全員の気持ちをつかむことが出来るのだろうか?

答えはNOだ

話し手が同じ表現で話をしても、受け手がそれぞれが持っている個性というフィルターを通して聞いてしまう。話し手が伝えたいことは、受けのフィルターの色によって変わってしまうのだ。それが今の時代である。

とあるセミナーを友人同士で聞いたとしよう。終了後、友人同士でセミナーの話について会話をしたとき、受け止め方が違うことが安易に露呈する。これが個性というフィルターである。

昔のバルコニー演説型であれば、参加者全員の賛意は尾等削りで得ることは出来ても繊細な部分では賛意を受けることが出来ないのが今の時代である。

では、どうすれば良いのか?

繊細な賛意を得るためには、賛意を得たい人達に、それぞれの個性に合わせたフィルターを使い意思を伝える以外に方法は無い。

では、フィルターとは何か?

当然決して物理的なものでは無い。

相手の個性、特性、性格を見抜くことである。そしてそれに合わせた言葉で説明をすれば、実は全員から同じような賛意を得ることが出来る。まるで八方美人のごとく・・・

俺を営業に置き換えればいい。

顧客は、当然、十人十色である。個性、特性、性格の分析をし、それに合わせた接し方をすれば、人間は必ず喜ぶ。

が、悲しいかな、それをちゃんと出来てる営業マンはあまり居ない。どうしてもバルコニー演説型営業マンが多い。

是非、八方美人型営業マンを目指してほしい。成功の鍵はそこにある。




2012年12月14日金曜日

自分の置かれているフィールド

地理的フィールド 組織的フィールド 人間的フィールド 精神的フィールド あげ出せばきりが無い


人間は、オンリーワンの生き物であり、二人として同じ人物はいない。

しかし、だからといって、たった一人で生きていくことはできない。

類は友を呼ぶという言葉があるように、よく似た人間同士が必ず自然と仲間になっていく。

その似たもの同士の団結が、一つの力となり勝利を勝ち取っていく。

そのフィールドは、水平方向に無限に存在する。先ほど書いたように、人間が生活する上で必要な要素の分だけフィールドは存在する。それだけ類は友を呼ぶ集まりがあると考えてもいい。

ただそれだけではない。意識のレベル、モチベーションを縦軸においたとき、垂直方向にも存在しているのだ。

もしかしたらそれは、全く別の要素として見られてるかもしれないが、同じ要素で意識レベルの違いで必ず存在している。

常に上のフィールドを見てみたい。そこには必ず次に自分が目指すべき目標があるはずだ。

常にそんな行動を継続していきたい。







青春とは

とある、お会いしたこともない会社の会長さんがプレゼントしてくださいました。




「青春とは」  原作誌 サムエル・ウルマン 自由訳 新井 満 



青春とは、真の 青春とは

若き 肉体のなかに あるのではなく

若き 精神のなかにこそ ある

薔薇色の頬 真赤な唇 しなやかな身体

そういうものは たいした問題ではない

問題にすべきは強い意思

ゆたかな想像力 もえあがる情熱

そういうものが あるか ないか

こんこんと湧きでる 泉のように

あなたの精神は

今日も新鮮だろうか

いきいきしているだろうか

臆病な精神のなかに

青春は ない

大いなる愛のためにか発揮される

勇気と冒険心のなかにこそ

青春はある


臆病な二十歳がいる 既にして 老人

勇気ある六十歳がいる

青春まっただなか

歳を重ねただけで 人は老いない

夢を失ったとき 初めて老いる

歳月は 人にしわを刻むが

情熱を失ったとき 精神は

しわだらけになる

苦悩 恐怖 自己嫌悪

それらは 精神をしぼませ

ゴミくずに変えてしまう

誰にとっても大切なもの

それは 感動する心

次は何が起こるのだろうと

目を輝かせる 子供のような好奇心

胸をときめかせ未知の人生に

挑戦する喜び


さぁ目をとじて

思い浮かべてみよう

あなたの心のなかにある

無線基地

青空高くそびえ立つ たくさんの

光輝くアンテナ

アンテナは受信するだろう

偉大な人々からのメッセージ

崇高な自然からのメッセージ

世界がどんなに美しく

驚きにみちているか

生きることが

どんなに素晴らしいか

勇気と希望 ほほえみを忘れず

いのちのメッセージを

受信しつづけるかぎり

あなたはいつまでも 青年



だが もしあなたが

心のアンテナが 倒れ

雪のように冷たい皮肉と

氷のように頑固な失望に

おおわれるならば

たとえ二十歳であっても

あなたは立派な

老人

あなたの心のアンテナが

今日も青空高くそびえ立ち

いのちのメッセージを

受信し続けるかぎり

たとえ八十歳であっやとしても

あなたはつねに 青春

青春とは 真の 青春とは

若き 肉体の中にあるのではなく

若き 精神のなかにこそ ある




2012年12月7日金曜日

自分の特性

あの人の頑張りはすごい。私はまだまだできていない。だから私はもっと頑張れる。

よく聞いたり目にしたりしますよね。

自分を相手の秤で評価している話だ。

それって本当にできると思う?


例えば、全く同じ力で、つねられたとしよう。一人の人は痛いと言った。もう一人の人は全然痛くないと言った。どちらが正しいのか?
当たり前であるがどちらも正しいのだ。
本当に痛くないのか、我慢をしているのかは別として、その人の主観で痛いかどうかは決まる。

人それぞれ、違った特性を持ち、全く同じ人間がいないのにもかかわらず、ついつい、同じと考え、相手を基準に考え自分を奮起させようとする。特に頑張り屋さんに多い。

自分の痛さのレベルは自分しかわからない。相手の痛さのレベルに合わせることなんかできない。

自分ができる範囲がある。それを越えればオーバーワークになり、体は壊れる。

では、自分よりも頑張ってると映る人を自分は超えることはできないのか?

答えは、NOである。

一人一人特性が違うのだから、その特性にあった方法で頑張ればいいのだ。

同じプロセスで進む必要なんてない。目指すところが同じであれば、そこに通じるプロセスが違っていても構わないのだ。

同じプロセスを踏もうとするから無理がでる。

大事なのは自分の特性や体の調子をしっかりと見極めることが大切である。それがわからなければ、自分にあった正しい道は見えてこない。

あれ?「体大事にしましょうね」ということが言いたかったんだけどなぁ






2012年11月23日金曜日

経験という素晴らしさ(百聞は意見にしかず)

百聞は一見にしかずと言う言葉がある。

当然皆さんも、聞いたことあるだろうし意味も充分わかっていることだろう。

最近、特にそれを実感している。

自分自身、5年前に社長に就任してから、動きが大きく変化した。

それまでも、いろんな役職で出張はしていたが、社長就任のタイミングで動きが大きく変わった。決して社長になったことがきっかけでは無いが・・・

より多くの学ぶ機会に恵まれるようになった。

個人として学ぶこと、経営者として学ぶこと、会社に反映させるもの その他諸々・・・

ところが、そこでジレンマに陥る。

自分自身が学ぶことは個人のことなのでかまわないのだが、会社に反映させなければならないものが会社に落ちない。いくら、あの手この手で説明しても想いが伝わらない。

2年ぐらい悩んだもんだ

自分の伝え方が悪いのか?社員たちのやる気が無いのか?受け入れるような組織じゃ無いのか?自分は認めてもらってないのか?

同じような悩みを持った人も多く居るだろう。

そんなとき、とある場で、北海道の同業の社長にお目にかかる。

自分の出張に、時間のある社員を連れて行くというのだ。

東京には、全国から多くの経営者の方々が学びのためにやってくるが、具体的な打ち合わせ以外で社員を連れている人はほとんど居ない。

その時には、へぇすごい会社やなぁとしか感じなかった。

そして、それから数ヶ月が過ぎ、同じ取り組みをしてる関係で弊社に研修として、15名で奈良にお越しになった。これは本当にビックリした。弊社始まって以来の大人数での弊社訪問である。

何処までホスピタリティを発揮できるのか、やったことの無い我々にとってすべてが手探りであった。

みんなの頑張りもあり、当日の計画はどうにかこなす事が出来たが、その後ビックリすることが起きる。

なんと、従業員たちの意識がほんの少しだけ変化しているのだ。

今まで、取引先以外外部と接触をしてこなかった技術系社員がほんの少しではあるが刺激を受けて変化しているんだ。

なるほど、これだ!と実感!

北海道の社長が従業員を連れて出張に出るのはこの事なんだ。

体験させなければ、伝わるものも伝わらない。

冷静に考えれば、ちゃんと物事が伝わり実践できるならそれは、高い無駄な経費では無い。確実に必要な経費だ。

それからである。自分も、適材適所、従業員を出張に同行させることにした。

目的とする内容の習得はもとより、社外での見識と交友関係の拡大、そして何より今まで未知の世界であった、経営者の実態!

私たちが出張先で、経営者同士、どんな会話をして、どんな付き合い方をしているのか?

あからさまに出してる。おかげで、従業員との距離が近くなった。今まで口頭だけでしか伝えて居なかったことも、一部の人達は実際に一緒に体験しているため、会社に落ちるのが早い。すべてが良いことずくめである。

今回とあるプロジェクトをスタートさせるに当たり、全従業員に、自分と一緒になってプロジェクトやりませんかとメールをしてみた。一部の社員から是非という嬉しい返事が返ってきた。その中には新入社員も居る。

経験をするということが新しい未知の世界を無限に切り開いていく。
それが人間という生き物なんだと実感する。

今会社は確実に動いている。経営者が動かすのでは無く、全員の力で動いてることを実感する。

これからもどんどん、従業員と出張を続けたい。








2012年11月16日金曜日

理想と現実

あなたにとっての理想と現実の定義ってなんでしょうか?

理想とは
考えうるかぎり最もすばらしい状態。最も望ましい姿。行動の目的となって現実に意味を与える。

現実とは
今、目の前に事実として現れている事柄状態

人間はいつも、理想を追いかけます。それが生きる目的となるのですから、いきいきと生きるためにも理想を追い続けなければなりません。

が、たまに、現実を見ずして理想を追求する人がいます。

今の日本ってそんな人多いと思いませんか?

現実を見ずして、理想を追いかければ、その理想に対する矛盾を生んでしまいます。


「お客様のために、お客様が望むサービスを徹底的に提供したい。」

どこの会社でも掲げ、従業員も頭に入ってるフレーズだと思います。


でも、現実を見ずに、この理想を追求すればどうなるでしょう?

売り上げ度外視、利益度外視 場合によっては、お金をもらうことすら悪と位置づけてしまいます。

現実を見なければ、こんなことになっちゃいますよね。完全な矛盾に陥ってしまいます。

あなたにとって働くという現実は何か?

あなたにとって働くという理想は何か?

働くに置き換えてお話ししましたが、両方をしっかり見つめて人は初めて、理想に突き進むことができるはずです。

間違えないでおきましょうね




自信とは!


そもそも最初から自信を持っている人っていてるのだろうか?

あり得ない。

では自信とはどこから芽生えてくるのか?

当然今までの経験で裏打ちされたことから、今、目の前で起こっていることに対する解決に自信はもてるだろう。

しかし、それだけで良いのだろうか?

まわり人達は、僕に対して「その自信はどこから生まれるのか?」「経験を積んだから自信があるんだ」と言われるが、実はそうではないんだ。


冒険からスタートした自信は自信とは言わないのだろうか?

確かに冒険はリスクを伴い、それが自信に繋がらないこともしばしばあるだろう。

しかし僕は、自分に偽り 己を無理矢理信じるところからスタートさせた。


「これは正しいんだ。俺が決めたことだから、絶対に間違いは無い」

「誰にどう言われようが、俺が深く考え決めた以上は、絶対正しい!」


強く思い込むところからスタートさせたのが6年前くらいだった。

当然その答えは今も出るものではないが、客観的に見たとき 現状は、順調に進んでいる。

そして何よりも、自分にとって無理矢理スタートさせた自信が、いつしか経験を積み自然体になっている。

今の自分を構築している軸になってる。



自信とは


己を信じるところから始まる。

己を無理矢理信じるところからしか始まらない。

それが経験に繋がり 自信となる

あくまでも私見である。




2012年11月4日日曜日

年相応と分相応

この二つの言葉、大変よく使われている。
年相応とは、年齢に見合った・・・・であり
分相応とは、身分に見合った・・・・となる。

この二つの言葉に対する自分の考えを書いてみる。

まず年相応と言う言葉。年齢に見合う服装、年齢に見合う言動、行動と言うようによく使われるが、その年齢に合う服装ってどんなの?言動や行動ってどういうことを言うの?

「もういい歳なんだから、そんな格好やめときなさい」とよく聞く。
これって本当に正しいの?
これって、逆に、その人の個性を潰すことに繋がってない?

確かに言動や行動については、大人が子供のような動きをするのはおかしいかもしれないが、それも、その時の雰囲気で、その個人を主張する方法であると思わない?

私自身、年相応という言葉なんかあり得ないと思っている。周りを不快に思わすこと無く、自分を主張できれば、そこには年齢なんか関係ない。
にもかかわらず、年相応を気にしてる人が非常に多い。
これも個性を出して目立つことに消極的な現れなのか・・・


では次に分相応。

これは、身分にあったということ・・
これは、年相応とは逆に、僕は、強く意識するときがある。
男としての立場、父親としての立場、社会や会社における自分の立場、これを忘れ、大きく背伸びしてみたりすると、必ずそこには不協和音が生まれ、不快感を相手に与える。
自分の立場や身分は自分の成長ともに一段ずつ上がるものであり、一気に飛び越えるものでは無い。当然成長の速度は、人の努力によって変わるが・・・
でもこれも、年相応とは逆で、意識してない人が多い。

なんか皆さん逆でしょ・・・


そう考えるのは自分だけなのだろうか・・・






2012年11月3日土曜日

経験する怖さ

自分が、行動する上に置いて、常に頭に置いている言葉がある。


「一度知った自分は、知らない自分に戻ることは出来ない。経験とはそういうものであ

る。」

人は安易にいろんな経験をするが、失敗をしたからと言って、実はリセットなんってかか

らない。実は経験すると言うことはそれだけ、怖いことであり、相当の覚悟が必要なん

だ。


じゃぁ、経験しなくてよいのか?と言うとそうでは無い。


人間は、経験しなければ成長することが出来ない。

「経験は、人間が生き成長するための糧なのだ」


人間として生き、人として成長するには相当の覚悟が必要なんだ!


いい加減な生き方なんてしてられない!

1=0.9999・・・(循環少数)は正しいか?

1=0.99999999・・・・・
は正しいかどうか?
皆さんどう思います。
私たちが学んできた算数では、絶対正しくないですよね!
でもね、これ証明できるんですよ

X=0.999999・・・・・(循環小数)

10X=9.999999・・・・・
10XーX=9.9999・・・・ー0.999999・・・・・
9X=9.000000・・・・
X=1

ほらね

知ってる人も多いと思いますが・・・

学問的には、このように証明できちゃう
1=0.99999・・・・では無いというのはあくまでも直観的に判断しているに過ぎないらしい・・・
なんか納得いかない

ではもう一問
同じ誕生日の人がいる確率が50%を超えるには、何人の人が集まればよいか?

答えは、実はたった23人

これを数学的に証明してくれたまえ!!!

このような、数学的には正しいが、直感とは相反していることを疑似パラドックスと言うらしい。

だからどうという話でもありませんでした。

終わり

2012年10月20日土曜日

無理という言葉の怖さ

私には無理だから・・・
もう無理!
よく聞く言葉だ。若い人たちでもよく使う。
よく似た言葉に無茶ということばがる。
無理も無茶も辞書で引いてみると
 物事の筋道が立たず道理に合わないこと」 とある。

が、僕自身の感情的な言葉の感覚として、「無理」という言葉に、自分への閉鎖と、他人への拒否という意味が大いにあると感じる。

実際、今までにもいろんな指導にあたった際、やる前から「もう無理」と言われてしまえば、そこからもう導いてやることはできないし、本人も、無理と決めつけ、学ぶのを止めてしまう。双方にとってこれほどつらいものはない。

「無茶」には常識外れと言う言葉が感覚的にはあてはまる。常識外れやけど、やってみる?!と言うような余裕がまだ感じられるのだ。

いずれにしても、無理は自分から発するものでも、他人に発せられるものでもどちらにせよ、総てを拒否する否定にしかならない。


ただ、無理や無茶をした先に見えるものもあるんだよねぇ・・・

無理でも頑張る。無茶をしてみると。自分の気持ちを発奮させるためには非常に良い言葉だ

そう考えれば、使い方で全然裏腹な言葉になってしまう?!まぁ否定には使うなということだ。





成長の違い

理解者であり、協力者だった人が敵にまわった。
そんなアホな!
おれなんかやったんやろか?     いや、何もやってない・・・・
なんか怒らせたんやろか?     何もやってないんだから怒る理由がわからない・・・・
えーーーーどうしよう?

よくある光景です。

答えは簡単、あなたとその人の成長の差ですよ。
あなたは成長し続け、もしその協力者が成長を止めていたら・・・・
あなたはいずれその人を追い抜いちゃいます。
追い抜き、引き離したところで、抜かれた側は感情をあらわにするんですよね
協力したのになぜ俺をほって行くんだ!この野郎、バカにしやがって!!!てな具合に・・・

そんなの気にする必要はない。単なる妬みなんですから!!

もしどうしてもその協力者が必要であれば、少し手を差し伸べてあげてください。
ほんの少しでいいですよ。深く入る必要はありません。自分の成長には多分必要なくなった人なんですから!
気にする必要はない。自分の信念を持って進めば良い。

過激な文章でした。ごめんなさい。

人に見せる自分の姿

一生懸命走り続けようとする人がいる。
特に起業をした経営者に多く見られる。
自分が走り続けていることが従業員のやる気を出させている。自分が走り続けなければ、従業員はついてこない。なぜなら自分は社長だから!
確かに間違ってはいない。
でも本当にそれだけですか?
一生懸命走り続ける中に、ちゃんとゆとりを持ってますか?

子は親の姿を見て育つと言われるように、すべての従業員ではないでしょうが、社長を目標として頑張る人達もいます。そう考えれば、もっと頑張らねばと思っちゃうのが経営者ですよね。
でもしんどくありません?
一人になって「あーーーしんど!』って言ってません?
それって、実は他人から見た時にやっぱりしんどく映っちゃてるんですよ。

頑張る姿を見せることは非常に大事なことですし、確かにまわりの士気を高めます。
でもね、行きすぎるとそれは、自分はしんどくなり、周りは引いちゃうことにもつながりかねない。
しっかりとゆとりを持って、堂々とゆとりのある姿を他人にも見せることが大切ですよ。

だからって、進捗が変わることなんか絶対ないですから・・・

できる人ってちゃんと遊びもしっかりやって人生楽しんでますから!!

なんかこんな文章前にも書いたなぁ  ダブってごめん




ギアチェンジ No.1

自分は上手くギアチェンジできてるだろうか?
ずっと一速のままで、走り続けてないだろうか?
新しいことを始めるとき、車で言えば走り出す瞬間は、一速からのスタートである。
がむしゃらに、目の前のことをこなして、その達成感で満足して走り続ける。他人から見てもすごく頑張ってる姿に映りますよね。
確かに最初はそれでいいでしょう。でもいつまでもそれでいいんでしょうか?

あなたの周りの環境って変わってませんか?
あなたを中心に変化を起こしてるはずなんですよね。自分が頑張れば、必ずそれは他人に影響を及ぼします。
特に、会社組織で、あなたが社長であればそれはなおさらのこと。

社長の頑張りは、従業員にも必ずそれは影響を及ぼします。
あらゆることが重ならなければならないですが、社長の頑張りは、従業員のやる気を起こさせます。

が、

うまくいってるから、ギアはそのままでよいのでしょうか?
車と一緒で、ギアチェンジしなけいずれオーバーヒートしてしまいます。
社長がオーバーヒートすれば、いずれ社員は、離れて行きますよね。
社員たちが常に走り続けることができるように、また社員たちもうまくギアチェンジできるように、自らが率先してギアチェンジしていかなければなりません。それは人の成長であり企業の発展につながるはずです。人の成長なくして企業の継続的発展はありません。

じゃあギアチェンジってなんなのか?
もう一回車のことを考えてみよう。
ギアチェンジすれば、少ないエンジンの回転数でより速い速度を得ることができる。
同じことですよね。
人間としてより高度なことができたり、組織としてより発展を遂げるためにより高度な領域に入って行くことです。










ギアチェンジ No.2

 では、いつどのようにギアチェンジすればよいのか?
事業計画の中に個人や組織のギアチェンジを盛り込み計画的に実施するのであればそれは何の問題もないでしょう。しかし、ギアチェンジを意識して長期計画を立てている人はほとんどいないのではないでしょうか?実際僕もそうでした。
では、どのタイミングで実施するのか?
答えは一つだけではないですが、自分が行き詰まった時はギアチェンジのタイミングだと思います。行き詰まる理由はたくさんあるでしょうが、現在の自分がピークに達っし行き詰まらせてることが原因なわけですから、一つ上にステップアップ(ギアチェンジ)するチャンスのはずです。
ここで、やりがちなのがアクセルを緩めてしまうこと。これでは全く前進できません。
ギアチェンジのため計画的に一瞬緩めること以外は、アクセルを緩めてはいけません。

ではどのようにすればギアチェンジできるのか?もし、客観的に考えて、次のフィールドが見えていないのであれば目指すところをしっかりと明確にしなければならないでしょう。   そうすれば自ずと次のフィールドが見えてくるはずです。
見えてしまえば、チャレンジするのみです。迷う必要も躊躇する必要もありません。なぜなら、あなたは今までそのギアでピークまで走ってこれたんですから、ギアを変えてもできるはずです。
段階的にギアチェンジを繰り返し計画的に個人も、組織も成長して行きませんか?
しっかりと意識をしてギアチェンジしていきましょう。

ちょっと真面目な長文でした。





2012年10月11日木曜日

新しい事へのチャレンジ

人が新しいことにチャレンジするとき、その場面を一緒に共有できる喜びはひとしおである。

特に、チャレンジしようとする内容が、自分の得意分野であれば尚更のことである。


なぜ、この人は、これにチャレンジしようしたっんやろ?

決意するまでの葛藤ってあってんやろか?

それってどんなんやってんやろ?

やると決めたきっかけってなんやろ?

決めてから今日まで、どんなんやってんやろ?不安だらけやったんやろか?


考えてみると、当事者を目の前にそんなことを考えるとやたらと面白い。当の本人には失礼な話ですけどね・・・

そのチャレンジが自分にとってどういう結果になろうとも、そこに行き着いたプロセスはしっかりと覚えておいてほしいもんだ。必ずそれは次に続く。

チャレンジの後には新しいフィールドが見え、次の扉がそこにある。それは成功しようが失敗しようが必ずある。チャレンジしなければそこには何もない平穏無事な今しかない。

だから僕は、チャンスがあるときNoとは言わないようにしている。

Yesが自分を次のフィールドに引き上げてくれる。

自分の力量ともしかしたら合わないかもしれない。でもそれは、実行までの時間と自分の努力が解決してくれる。
高すぎても駄目だがハードルは高い方が良い。少々の無茶はしないと次は見えてこない。

多いに無茶しましょ













2012年10月4日木曜日

時代の流れの中の服屋さん

この年末で、成人になって以来、僕の面倒を見てきてくれた服屋さんが閉業する。親父の代から続いている服屋さんである。
成人式には行かなかったが、それようにと作ってもらったのが自分にとって第1着目のスーツである。
それ以来、何着の服をその人には作ってもらってきたか?
これからもその人の服を着れるもんだと思っていた。
僕の周りにも同じ服屋さんが作ったスーツを着ている者が数名いる。
当然彼らも同じ思いなんだろう。

ある意味自分の身体の大きさを総て理解してくれている人である。
ご子息が後を継がれるもんだとばかり思っていた。
理由を聞くと、決してご子息の問題ではなく、時代の流れに会わなくなってきていると言うのだ。

安売りのスーツ屋が世に多く出てきても、良い仕立てのスーツの意味をわかってくれる人は着続けてくれた。

しかし最近になり、その意味が理解してもらいにくくなった。

本物の良さを解る人間が減ってきたというのだ。
これは本物が解る人たちが逃げていったのではなく、本物を知る人が高齢になり、スーツを作らなくなった。そして、若い人たちにその良さが伝わらない。

高度な技術が安さに負けてしまった。テーラーとして、職人として誇りを持てなくなった。

だから息子も店には戻さなかったと言う。

何とももったいない話であるが、かたや時代の流れと言ってしまえばそれまでの話なのだ。


一度だけ、オーダースーツを百貨店で買ったことがある。
一度どんなものか着てみようとちょっと浮気心で買ってみた。生地もそこそこで、半値ぐらいで作ることができた。
数回着てみたが、ストレスがたまるばかりで、仕事にならない。そのスーツは、今タンスの肥やしとなっている。

そこで改めて知った。

あの方は僕の身体の総てを知ってくれているのだと・・・どこがどのようにカーブしていてどこが真っ直ぐなのか!サイズだけの話ではないのだ。
プロが作る服の本質を改めて実感する。
服とは、その人を大きく綺麗に見せるものでも何でも無く、その人本来の姿をきっちりと演出するための道具である。
合わないスーツを着ると、人間をマイナスにしか表現しない。だからといってぴったりな服は、その人を力量以上に表現するものでもない。その人を当たり前に表現するのだ。

そんな服を作れる服屋はもうそんなにいない。

そんな彼が、もうじき最後の御用聞きにやってくる・・・・・・・・・

田中さん、ありがとう

挨拶の意味と社員教育の意味

業種によって挨拶のあり方って色々ありますよね。

来客時、必ず、全員が立ち上がって笑顔で「いらっしゃいませ」と行ってくれる会社
受付担当者だけが挨拶する会社
お客様を送り出し、見えなくなるまで頭を下げている人
飲食店で、カウンターの中から、客が出て行った後も20秒ぐらい頭を下げている人

上記は、客、に対して書いてみたが、身内、従業員同士でもスタイルはマチマチである。

考えてみれば、挨拶のスタイルは総てその会社や個人の考え方を表しているのかもしれない。
この業種だから、こうだ! こうするべきだと言う決まりはない。

客を含めた人間とどう向き合うか、その第一歩が挨拶である。声の大小やスタイルも大事であるが、気持ちをどのように表現するかが重要だ。しかし、気持ちを表現するというのはたいていの人間はできにくいものである。が故に、各社、挨拶のスタイルを決めているのかもしれない。となると、挨拶が気持ちのこもらないマンネリのルーチンになりかねない。やはり難しいですよね。

先般、運送会社、飲食業、エステ、デザイナーの社長達とご一緒する機会を得た。
それぞれ、総ての会社を訪問させてもらったが、お客様との接し方は異なれど、思いは一つなんだと言うことを実感した。
話題に出たのは、従業員は商品であるということ。当然総ての産業に当てはまる話ではありませんが、その意識を従業員が持っている会社はやはり強い。
建設産業においても、僕は同じ意識を持っている。建設させて頂いた建物や構造物が商品ではなく、それを作ることができる高い技術を持った社員が商品なんだ。それを、今までもこれからも自負していくつもりであるし、そのための知識、意識の向上にも努めてきた。でもまだまだやることはある。それも身近な所に・・・・

挨拶もその一つ。前述したように、挨拶を紐解いてみると、非常に奥深いもの。
挨拶本来の意味をわかって、できるようになるまでは相当の意識改革が必要でだろう。
挨拶は個人の気持ちの表れと自主性に任せるのではなく、社員教育の一環として捕まえてみると、各企業を訪問した際の挨拶のされ方というのは非常に勉強になる。

灯台元暗しに陥ってはいけない。
挨拶を通して与える弊社のスタイルと従業員の意識高揚についてフランクに考えてみよう。






2012年9月28日金曜日

黒部の太陽に思う

1968年 石原裕次郎 三船敏郎 宇野重吉 達が出演した、超大作である。
ご存じの方も多いとは思うが、黒部第4ダム及び発電所建設に伴う、作業資材搬入用のトンネル工事のドキュメンタリー映画である。
そしてこの映画は、裕次郎のこの映画に対する思い、スケールの大きさから、裕次郎の希望でテレビ放映やDVD化は一切されていない、いわば銀幕でしか見ることのできない幻の映画なのだ。
それが、今回震災復興チャリティとして44年ぶりに全国で上映会が実施された。
奈良では、9月23日 日曜日 昼の部、夜の部の2上映であった。
僕自身は、夜の部の上映会に参加。奈良文化会館は、残念なことに来場者は少なくガランとしていた。そのような映画とだとは皆知らないのか?残念であった。

さて、僕自身の黒部との関わりを書こうと思う。

今から10年くらい前、関西電力のモニターを仰せつかった折、研修として連れて行っていただいた。
まずはトロリーバスで関電トンネル(黒部の太陽の舞台)を通り、フォッサマグナの破砕帯を通過し、黒4ダムへ。ここまでは観光ツアーと同じルート。ここからが驚愕の連絡である。
ダムの端にある、扉から一歩中に入ると、外の人の賑わいとは打って変わって、ガランとした静寂した大きなトンネルに入った。我々一行は8名ぐらいだったので、その変化に驚いた。そして、こんな所にトンネルがあったのかと驚きを隠せない。
バスに乗り、そのトンネルをひたすら進む。途中バスは一旦停止した。
トンネルに開口部がありそちらに案内された。トンネル掘削の折、廃土用に開けた開口部らしい。そこから、実は槍ヶ岳の裏側が拝める。自分自身、登山の経験が無いので、良く解らないのだが、人が、槍ヶ岳の裏側を見ることができるのはこの場所だけですと案内の方が語ってくれた。黒部は険しく、裏側を見ることができる場所まで人が入ることができないのが理由らしい。

次に案内されたのは、第3ダム及び発電所建設時に、発生した泡雪崩により84名が命を失った現場である。作業用宿舎として渓谷の中腹に建設された宿舎(1,2F RC造、3,4 W造の)3,4階部分を雪崩で押し流すのではなく、600メートル離れた、渓谷の反対側の斜面に吹き飛ばしてしまった事故である。84命中47名は遺体の確認すらできなかったという。

そして、トンネルを移動すること約30分(見学時間含む)
宇奈月側から建設資材を搬入するための傾斜エレベーターに到着する。当然このエレベーターもトンネル内にある。この傾斜エレベーターは10tダンプは余裕で運搬できる能力を持っている。その傾斜エレベーターに平行してダムでためられた水を発電所に落とす、送水管が敷設されている。
ご存じの通り、この一帯は国立公園であるためダム以外はすべて地中に埋設されている。

さてこの傾斜エレベータで、我々が乗ったトロッコごと急傾斜を下っていく。約15分くらいかかったのではないだろうか?
到着した場所が、黒部第4発電所である。当然、総てが地中にあり完全に要塞化している。
そして、そこから、トロッコに乗り、宇奈月に出るのである。途中、欅平まで約1時間、終点の宇奈月まで1時間の行程である。このトロッコは、よく知られており、欅平までは、観光客行き来ができるが、そのトロッコの本来の目的は、実は第1から4発電所及びダムの建設に物資を運び込んだトロッコであり、現在は、第4発電所の職員の送り迎えをするトロッコなのだ。
そして、発電所から欅平までの間(観光客は立ち入り禁止区域)に、有名な高熱隧道がある。工事当時地熱が100度を超え、掘削のダイナマイトが自然発火により爆発、多くの作業員が命を失った場所である。現時も、温度は下がってはいるが、地熱、湿度とも高くそこにさしかかると、トロッコの窓ガラスが一瞬にして曇った。窓を開けてみると硫黄の匂いがきつくしたことを覚えている。

建設業に従事する人間として、この経験は何にも代えることのできない、日本人としての誇りと土木技術者の使命感と覚悟を肌で感じる研修で会ったことを覚えている。そしてそこで知ったのが、「黒部の太陽」という映画であった。

先述したように、もう見ることはできない映画である。またこの研修も、たぶん2回目はないであろう。
映画の内容は、現在トロリーバスが運行されている関電トンネルの掘削が舞台であり、岩盤とフォッサマグナの境界である糸魚川静岡構造線の破砕帯を抜くという難工事である。破砕帯とは字のごとく、非常に崩れやすく、アルプス山脈に含まれる大量の水が出水するという場所で、現在を持ってしても難工事であり、当時、熊谷組が関西電力より受注しその難工事に立ち向かう関電担当者及び熊谷組の土木作業員の飽くなき努力が描かれた映画なのだ。

石原裕次郎は、熊谷組下請け会社の番頭、三船敏郎は、関電側工事責任者という配役である。

映画自体、内容だけに非常に大きなスケールで撮影され、撮影中の事故などで、石原裕次郎も一時命に関わる怪我をしている。

さて感想であるが、一にも二にも、この難航にに対して、トンネル屋として何があっても意地で抜いてしまうんだというプロ意識が随所にあらわれ、その凄さに、鳥肌が立ち、涙さえ出てくる。実際に現地を知っている私からするとその凄さはリアルであり、このブログを書きながらでも身震いするほどのものであった。
黒部第4ダム及び発電所は戦後復興の礎となると信じ、関西電力の運命をかけて着手する凄さ、関西電力経営者の覚悟、関電工事責任の、悩みながらも、思いを一つにコントロールする精神力。過去に経験したことのない難工事に立ち向かう元請け会社と下請け会社の悪戦苦闘の中にある責任感の強さ、現在では、到底あり得ないような状況で、それぞれの方向性は違えど、それぞれの思いが美味く絡み合い、最終的には、大きな目標を達成するという、現在社会、とりわけ、我々の産業では、安全品質の観点からあり得ない進め方でプロジェクトは進んでいく。ただ、彼らの努力、覚悟責任感の強さが、今の日本の礎になって脈々と引き継がれていることは間違い。そんな日本人の誇りを強く感じさせ、そして今を生きる我々にそれを思い出させるに十分な力強い映画である。

是非もう一度見てみたいが、今度はいつチャンスがあるのだろうか?

参考までに、フジテレビが50周年記念番組で、香取慎吾を主役にリメイクしている。



2012年9月18日火曜日

相手に与えるインパクト


人間を飾るという言葉を聞いて何を想像しますか?ブランドの服や装飾品しょうか?
ここではちょっと違う観点で見て見たいと思う。

皆さんは、仏教における仏様についてご存知だろうか?仏様にいくつか位があります。
最高位が如来様、二位が菩薩様 三位が明王様 四位が天部様の順です。
順位は下になるに連れ我々人間に近づくわけです。当然如来様は悟りを開いた方ですから、自らが光り輝いています。今度、お寺参りをされた時にごらんになれば良いと思いますが、上位になられるに連れ、質素なものを、纏われています。これは、自らが光り輝いているから、他のもので飾る必要がないということです。

では人間はどうでしょう?先の程の仏の位でいくと最下位なわけですから、思いっきり着飾り、装飾品をつけてもあまり目立たない存在なのでしょう。それだけ、中身ができてないということなのかもしれません。

では、人間界おいてはどうなのでしょうか?
基本的にはみんな平等な訳ですから、着飾る必要もないのでしょうが、自分の価値を高めるため、また、多くの中で自分を目立たせるため、などの自己の満足のために、着飾ったりします。決してこれは悪いことではなく、人間のせい的観点からいくと至極当たり前と言えるでしょう。
ではお金をかけて着飾ることだけで良いのでしょうか?普通であれば着飾る前に如来様を見習い、中身を磨け!と書いてしまいそうですが、それはそれで当たり前として、ちょっと視点を変えて見ます。

よく営業マンは、身だしなみに注意しなさいと言われます。特に始めての人通しがお互い会った時、相手の印象は、最初の5秒で決まってしまいます。そしてその5秒を取り返すのには相当の時間とエネルギーが必要となります。そのためにも、清潔感を持って服装を決め、ズボンはプレスをし、靴は磨き、髪の毛を整え、髭は剃りなさいとよく言われたものです。確かにその通りですし私自身も、営業にこられた時や始めての来客の時などは、同じように観察し判断している自分がいます。
ところが、これに関して、昔から、少し違和感を感じていました。
上述した内容を全部クリアしてるにもかかわらず、うまく伝わってこない人がたまにいます。皆さんもそんな感覚にとらわれた方がおおくおられるのではないでしょうか。内面的なものなのかとさらっと流していたのですが、最近それについて答えを出すことができました。
それは姿勢です。そう物理的な姿勢なんです。猫背であったり、骨の歪みから少し傾いていたり、座った時にクセのあるん座り方をする方がたくさんいます。それが、くすんで見えていた原因だったんです。姿勢は治るもんじゃないし、そんなことと言われても無理ですよと言われる方がほとんどでしょう。しかしそんなことはありません。いくら高価なもので着飾っていても、姿勢が悪ければそのポテンシャルを十分に発揮できずにもったいないことにもなります。

人間には正しい姿勢というのがあります。実はその正しい姿勢になることで、他人に対して強烈なインパクトを与えることになります。言い換えれば、それだけ正しい姿勢の人がいないということです。これは決して内面のすごさではないのですが、人間として自然な姿に戻すことが、相手に対してかっこ良い印象を与えることになるのです。そしてこれがベースとなるのです。おかしいものにいくら価値をつけても、そのポテンシャルは上がりませんし、内面から出て来るものを十分に持ってる人も、見かけの評価は下がりかねません。
姿勢のいい人には、内面とは関係なく、自身に満ちた姿に見えますし、装飾品をつけてもすべてが似合って見えるものです。デコレーションで自分を飾る前に、自分の姿を鏡で見て見ませんか?

当然、お釈迦様の姿を忘れてはいけません。姿勢良く、いらぬ装飾品で飾らずして相手に好印象、インパクトを与えられる自分を構築しましょう。

新規採用異常あり

弊社での出来事。
2ヶ月ほど前、新卒者に対しての会社説明会を本社にて開催した。弊社始まって以来のこのような催しである。
近年、新卒者のレベルの低下から、大卒も含めた新卒者採用に本格的に取り組み出した一環である。応募は、20名を若干下回る数であったが、始めての取り組みとしては上々ではないか!と、安心をしていた。
ところがである。実際当日になり、蓋を開けてみれば参加者は3名。担当のメンバーは一様に肩を落としていた。しかし、問題なのは、3名しか来なかったということではない。
問題なのは、欠席をした半数以上が、連絡なしなのだ。
担当者たちは、前日に確認の電話を入れるべきでした。としきりに反省をしているが、反省などする必要はない。常識からしても、連絡なしというのはもってのほかである。

ただここで嘆いていてもしようがない。
自分なりに、考察してみた。
約束を守れない。断ることを知らない。こんなの、学校教育でも何でもない。すべては親の教育そのものではないのか?
大人は、自分はすべて整っていると勝手に思っている。判断するのは他人であるにもかかわらずである。その未熟な親から、その親のレベルを超えた子供が育つというのは例外を除きほぼあり得ない。挨拶できない親の子はやっぱり挨拶できないのだ。
そんなことを考えていると、このような子達が世に出てきて当たり前と感じるようになった。自分が非常識でありながら、常識人であると勘違いしている親は、世の半数を充分超えているだろう。自分の姿は、子をみれば一目瞭然である。自分を棚にあげて、子を叱ってる親の多いこと。
「自由奔放に伸び伸び育てたい」若い親から多く聞く教育方針である。しかし、叱ることなく伸び伸び育てると常識も教えないをを混同している親が多すぎる。これではダメだ。
そんな環境で育ってきた子供達が、数年前から社会に出だした。
そんな子供達を我々は、採用していかなければならない。一部の経営者たちはいう。そんな子は採用しなければいいんだ。面接を無断で来ないやつに目をかける必要はない。確かにその通りだろう。
しかし、経営者の皆さんしっかり考えて欲しい。本当にそれで良いのか?それって最後自分の首を締めることにならないのか?
当然世に出て来る若者すべてが、上述したような若者でないことはわかっている。が、非常識の若者の比率は確実に増えている。良い人材は、どんどんと大手や優良企業が採用して行く。我々、小零細企業は、どこに採用に基準を持てば良いのか?今と同じような、バカは来なくて良いと言い続けていて良いのだろうか?

方法は、二つしかない。非常識なバカが来ないような会社に成長させるか、非常識の人間を別の観点から観察し、企業教育により新卒者に変化を起こさせるしかないのではないだろうか?もう親の教育は当てにならない。

我々は実はもうそんな崖っぷちに立たされている。経営者の皆さん。自分たちのところにいい人材が集まるような会社ですか?それを知ってるのは間違いなく自分ですよね。今から手を打ちましょう。一部では、就職面接に親を同伴させるという企業も出てきてるんですよ。賛否はあるでしょうけど、僕は充分意味は理解できます。面接の訓練で、自分をうまく隠す子供達の中身は親をみれば一目瞭然というところなんでしょうね。
今動かないとまた遅れをとってしまいますよ。ましてや人材の確保の遅れは経営にとって致命傷ですからね。その前に、親として自分は大丈夫なのか、自分の子供は本当に大丈夫なのか冷静に判断してみましょう。

2012年9月12日水曜日

経営理念と言う言葉の意味

理念。良く耳にする言葉である。
経営理念、憲法の理念 etc 理念を使った言葉も多くあります。

理念という言葉をちゃんと説明できますか?

中々難しいですよね。

分解してみると

理・・・ すじ ことわり 決め
念・・・ 心中深く思う

と言うことです。

以上のことから理念とは「深く思う 筋 決めごと」

と言うことになります。


会社経営にとって、経営理念はなくてはならないもの・・・・と僕は感じていた。
しかし、とあるデータを視てみみると、経営理念を持ってない会社が多いこと多いこと

経営理念がある会社が53% 
無い会社が43% 
その他(無回答を含む)3%

と言う恐ろしい数字が浮かび上がったそうだ。

小零細企業に関しては、理念なんか無くても会社運営はできるんだときっぱり言い切る経営者もいたという・・・・・ほんまかいな?

先ほど、理念については説明をした。

では経営理念とは何なのか?

先ほど同じように分解して考えてみよう

経営 事業目的を達成するために、継続的・計画的に意思決定を行って実行に移し事業を管理・     遂行すること。また、そのための組織体

と書かれている。

合わせてみると
経営理念とは「事業管理上深く思う筋、決めごと」と言うことになる。

これは、わかりやすく言い換えると、
事業遂行における基本的価値観と目的意識と言われており
カンタンに言うと、われわれは何のためにこの会社に集まっているのか?を表したものである。

先ほどの同じデータで次ぎのようなものがある。
経営理念の作成時期はいつですか?
創業時 40%
5年以内 19%
10年以内 12%
10年以上 29%
というのである。

先ほどのデータと合わせてみてみれば、経営理念があると無いが半分ずつ。尚且つあると答えた企業のうちの60%が5年以内と答えているのだから、無い会社が目立って当たり前である。

じゃぁ無くて良いのか?

経営理念とは、事業遂行における基本的価値観と目的意識であり、これがなければ、


社員が何のためにここで働いているのかがわからない(存在意義の喪失)
この会社がどうなっていくのかがわからない(将来性、夢の喪失)
何を判断の基準としていいのかがわからない(判断基準の喪失)
ということが必ず起こる
 
そして、経営理念がなければ社員の目的(ベクトル)がそれぞれの方向を向いてしまい、コミュニケーションが滞り社内に不調和や不正がおき、それが顧客に伝わり業績が低迷してしまう。
と言うくらい、経営理念というのは大切なものである。

理念の中には
自利利他、積善、陰徳、孝行、祖先崇拝
正直、勤勉、努力、本業特化、質素倹約、忍耐
などの儒教に根ざした倫理規範と経済規範があるらしい
 
中小企業が経営理念を作る場合はまず
1.大義名分、つまり何のために仕事をするのか?
  
2.これからどうしたいのかという将来の夢を語り
3.毎日の行動をする際に、何を基準にして判断したらいいのか
4.具体的にどうしたらいいのか?という毎日の行動指針を理念として示してゆく
 

理念は外にあるものではなく社長の心の中にあるものです。

経営理念は社長が作らなければ誰も作れルものではないのです。


以上のような事も含め、先述したように、理念は創業当時でないと作れないものではなく、時代に即した形で作成をして良いものだと感じている。大切なのはいつ作るかではなく、それをかに従業員全員と共有できているかだと思う。今からでも遅くはない。経営理念を作ってみよう出なはいか!

今日、経営理念の見直しをしていたとき、とあるホームページか等の内容を借用し、自分が理解するためにブログとしてみた。




2012年9月10日月曜日

とある監督の苦悩


強く生きよと母の声
死ねと教えし父の顔
走る時代の歯車ならば
人にかくれて生きるもよし
これは、世界的に有名な日本人映画監督が、東京の某所で壁に殴り書きをした一文です。1995年の出来事ですからもう30年近くなります。
今でこそ大成功を収めている、その監督もこの事件の時には、総てを投げ捨て、自暴自棄に陥っていた様子が現れています。

僕はいつもマイナス思考に入ってしまったりしたとき、この一文を思い出します。

自分は歯車で良いのか?
こそこそ隠れて生きるのが自分の生き方なのか?

良いはずがありません。
それをストレートに伝えてくれる一文です。

誰か解りますか?この監督とその事件・・・

今もその殴り書きはあるのだろうか? 久しぶりに見に行ってみるか?

2012年9月5日水曜日

ONE FOR ALL  ALL FOR ONE

一度は耳にしたことがある言葉だろう。
「一人は皆のために!皆は一人のために!!」と言う日本語訳で知られている言葉だ。

そもそもは、ラグビーのチームプレー精神を表す言葉として知られている。
が、その出所は三銃士などで有名なフランスの作家 アレクサンドル・デュマの「ダルタニャン物語」で使われていた言葉を、その意味からラグビーで使うようになったらしい。

さてこの訳 実は「一人は皆のために 皆は一人のために」は誤訳だというのだ。前半部分のOne for all の部分は正しく、後半部分のAll for one が誤訳らしい。後半部分のoneは人を指すのではなく 勝利(Victory)を指す言葉だという。
正確には「一人は皆のために 皆は勝利のために」が正しい訳だという。
これは元全日本監督 平尾誠二氏の意見である。



いかに優秀な個人であっても限界がある。しかし個人プレーがチームプレーに変われば、単純に1+1=2ではなく 3にも5にもなり得る。これがチームプレーの素晴らしいところである。ここまでは皆も理解できるだろう。

しかしこれには実は大きな条件がある。
ここで言う一人ひとりは「自立した大人であること」が大前提である。
一人ひとりが「勝利」という大きな目標に向かってしっかりと自分の足で立ってて初めて成立するのである。
誰かに寄りかかっていたり他のメンバーに甘えているようであれば、相乗効果を生むどころか、1+1=2の単純な計算も成り立たない。 
自立した大人であることが大前提なのだ。


果たして、一人前にも満たない烏合の衆がチームプレーの本質である相乗効果を生むことが出来るだろうか。お互いが助けて 助けてと言い合ってる烏合の衆の集団に絶対にあり得ない。コレは助け合いの集団ではなく、助けられあいの集団でしかないのだ。
一人前以上のプロフェッショナルが集って初めて相乗効果は発揮される。
自立し自分の食いぶちは自分で稼いでこれる人間が集まって初めて莫大な力が発揮され周りを救っていくことが出来る。

だからこそ、まずは自分の力でたつことから始めなければならない。
自分で立てもしないうちから ALL FOR ONEといって助けられ合いをするのはやめよう

泳げない人は溺れてる人を助けることは出来ないんだから

まずは勝利に向かって自分の足で立つ
そして、チームワークの相乗効果で勝利をつかむんだ。


2012年8月30日木曜日

異端児が成功への最初の道のり

人間としての成長が止まっている時、同類項で群れをなし、群れの中の他人を見て、自分はこれで良いのだと納得をする。
向上心が芽生え、方向性が見えてきた時、その群れにいることの違和感を覚えどうして良いのかわからない不安感にかられる。
方向性に向かって覚悟を持って進み出した時、元の群れからは異端児と言われながらもそれが自分の成長と信じ、新しいフィールドの扉を自ら開けて進み出す
そして元居た群れに決して戻ることはない。
もうこれで怖いものはない。

果たして、この行動をどれだけのひとがとれているのか・・・

こんな盤面に何度も出くわし、関わることができる俺は幸せ者。今日もまた新しい異端児が増えるかも!

2012年8月15日水曜日

先般の三重県甲賀の海です







今まで撮影した水中写真集です

良かったら見に来てくださいね
https://picasaweb.google.com/105257888024592400007/No?authuser=0&feat=directlink

師と仰ぐもの

あなたにとって手本となる人は誰ですか?
目指してる人はいますか?
師匠と思える人は誰ですか?

さてこの問いかけに、どのように答えますか?
いろんな方の名前が出てくるでしょう。松下幸之助を筆頭に、本田宗一郎 稲森会長 etc 
きりが無いくらい著名な方々の名前が挙がるでしょう。
ビジネスだけではなく、人生においても、師と仰ぐ方がいるに違いありません。

当然、私にもいろんな方が昔、おいでになりました。JC時代の先輩 サラリーマン時代の上司 など。しかし、35歳を過ぎたとき、師と仰ぎ、その方を目標に生き、ビジネスをすることを辞めたんです。
なぜなら、その方を師と仰いでる限り、その方に近づけるでしょうが、絶対に追い抜くことは出来ないと悟ったからです。当然ですよね。今でも、「この部分は、あの方のこのスタイルをまねてみよう」というように、パートでは今でも師と仰いでる方はおいでになります。しかしそれは、遠い存在の方ではなく、ごくごく身近な方を師と仰ぎ、自分の成長を実感できる方を設定しています。存在の遠い方を設定しちゃうと比較できないもんね。

最初の設問が飛んできたとき、私の答えは、「いません」なんです。
何を生意気なこと言っとるねんと思われそうですが、以上のような理由からそのように答えています。
立派な方は沢山おいでになりますが、目標にするような人は一人もいません。なぜなら、その人のコピーになることが自分の目的ではないですし、万が一、その人に追いついてしまったときに、目標を見失ってしまう可能性が非常に大きいからです。
人間はそこで成長を止めてしまいます。
実際、そんな方を多く見てきました。
本当にもったいないことです。
このような方の共通点は、自分が師となると言うことを全く想定していません。永遠の目標を学びにおいてしまっているんです。当然、師に追いつくと目標がなくなりますよね。それどころか、追いついてることに気がつかずに迷走を始める人もいます。もう、かわいそう・・・の一言に尽きます。

とある有名なビジネスの会の会長さんがインタビュー(あくまでクローズ)の中でこんなことをおっしゃってました。
インタビュアー「あなたの会の中に、あなたを超えていきそうな経営者は何人ぐらいいますか?」
会長「そんなのいるわけ無いじゃないですか!僕を目標にしちゃってるんですから超えれるわけ無いでしょ・・・超える奴はちゃんと辞めていきますよ」

ビジネスマンの皆さん、いかがですか?皆さんは間違ってませんか?





2012年8月13日月曜日

新しいことをやってみよう

先日49歳の誕生日を迎えた
みんなも言うが何と早足な40代なんだろうか!と言ってもじっと振り返ってみると当然の如くいろんなことをしてきてる。30代の10年よりは確実に多種多様な行動をしている。
人との出会いと自分の行動に主眼を置いた俺の人生。40代になり確実に大きく膨らんだのは間違いない。
50目前になり、自身、学び、成長しながらも確実に、他に教授して行くこともしなければならないと考えている。そんなんまだ早いヤンと言われるかもしれないが、自分が考える人生の時間軸では全然早くないのだ。ピークをすぎた人間が、他に教授しても全く何も意味がなく教えられる側も、タイムリーでない分的を得ることができない。
人のピークはどこにあるか?それは人それぞれであろう。であるがゆえに思いついた時が吉日なのである。思いついたら即実行。チャンスを逃さない唯一の行動である。今年春以降、そんなことを考え、計画をしてきた。50歳を迎える前に行動に起こして見たい。
と言っても俺から学びたいという変わり者が出てこなければ意味がないが・・・・・

2012年6月29日金曜日

アメリカスタイル 食事の件

先般ミクロネシアに行ってきた。昨年、秋にはグアムへ!今年初めにはサイパンへ!それぞれダイビングがメインの旅であった。ミクロネシアは2回目、グアムは3回目? サイパンは5回目位だろうか。それぞれに、グアムを中心に、渡航できる位置にある。サイパングアムの関係は置いておくとして、ミクロネシアは、グアムから、西にある。首都はポンペイ。グアムから飛行機で二時間程度の位置にある。
この2島と1国(グアムとサイパンははアメリカ領 ミクロネシアは共和国)であるが、グアムサイパンはアメリカ領であるがチャモロ人の島。住んでいる人種も違うが、戦後アメリカの影響を大きく受けている。生活必需品は、ほとんどアメリカからの輸入品である。特に食料品は海のものを除きほとんどを輸入に頼っている。ミクロネシアに限っては、野菜まで輸入である。ある意味嘆かわしいことではあるが、気候風土を考えるとしようがないのかもしれない。
ではアメリカの影響を受ける前まではどうだったのだろうか?グアムサイパンには、チャモロ料理というのがあるが、大々的に有名でも、それを食べさせるレストランも殆どない。ミクロネシアも同じである。ローカルフードが食べたいと思っても、食わせる店がない。というより、料理そのものが原始的なのかもしれない。そんなところにアメリカの影響である。私にとっては大好きなアメリカスタイルの食事ができることは嬉しい限りだが、ちょっと違和感を感じる。あれ?そんな寂しい文章を書くつもりではなかったのに………

それぞれで食べたTボーンステーキ!美味かったなぁ。日本では食えないんだよねぇ。狂牛病の関係で………風評被害の影響で………あー哀しい!

2012年6月8日金曜日

B-747とB-777

何のことか解りますか?

そうです!ボーイング社の飛行機のことです。

先般、羽田空港で、747と777が駐機場に羽根を並べていました。確かにこの光景、ターミナルからはよく見るのですが、後ろから見たことありますか?
実は、自分が乗っている便が出発する際、滑走路に向かう途中で見かけました。総てが電源OFFですから写真は撮れなかったんですが、何とも747の堂々たる姿に惚れ直してしましました。
前から見るとどうしても顔(操縦席)に目が行きがちで全体像をつかみにくい。その点後ろからは、堂々たるエンジンに目が行くぶん、堂々さが際立ちます。
747はエンジンが4発 777は2発。当然、777の方が新しく,構造も違うでしょうから当たり前なんですが、777の翼はピンと上を向いています。
それに比べ、4発のエンジンを翼に持つ747は、少ししなったようになるんです。この下向きのしなりが何ともかっこよく「何にも動ぜず」という空気を醸しだし、777に所詮おまえは弟よ!と言ってるかのような雰囲気があります。

強いて言えば、747は背中で物言うお父さん!777は行け行けドンドンの若手実力者と言ったところでしょうか?

この747がJALは全面引退させ、ANAが数便保有してるだけです。だんだんと日本で見れなくなってきています。(国内航空会社に限りですが)悲しいですよね。


でも時代の流れで、いずれ777が背中で物言う時代になるんでしょうね。

自分は今どんな位置に居るのかふと考えました・・・・・

2012年5月30日水曜日

人間の選択(決定論)

一つのことを決定する上に置いても以下のような決定の仕方がある。
とある、HPからの引用である。


ほら今貴方がしたけってい、どれに当てはまるか考えてみて!!


そして、どれが一番正しいのかも!




人が、物事を決定する過程は、極めて複雑である。(それを、毎 日毎日、たくさんの決定を瞬時に行っているから、たいしたものだ 。もちろん、機械的にみれば、二足歩行もたいしたものだが、日々 、何の問題もなく行っている。) 
特に、投票行動に限って分類してみた。(ちょっと、適当だから、 まだあるかもしれない。)


 <習慣的決定> 
 以前の決定の踏襲である。(実は、多くの決定は、このバリエー ションで、無意識化されて、行われる。) 


<好悪的決定>
 感情的な決定である。あの人が好かん。とか、こっちのデザインの 方が好きというものだ。 これは、総合印象判断とも言えるが、理屈ではない。スキャンダル では、ここが動く場合もある。かっこいいから…、テレビで良く見 る、などは典型。(女性に多いとされるが、本当は、男も多い判断 基準である。)


 <被誘導・依存型決定> 
自己判断より、他者の判断(自分が尊敬する人など)を決定材料に すること。(宗教で、教祖がやれと言えば、何でもハイと行動する のもこれにあたる。)知り合いに頼まれた、あの人が言ってるから 、などもそう。 


<一部利益選考型決定> 
自分が属する集団の利益等のみを考慮して決定する。(医師会?農 協?労組?など、特定組織に属し、一部自己利益に合致するかだけ を問題に、判断する場合。) 


<待望的決定>
 これも雰囲気派に属するが、よく「風が吹く」などの表現があるよ うに、大きな力になることが、多い。(つまりは、<変化>の為の <変化>を期待して、行動する。)現状が、駄目と思えば、変化さ せるしかないではないか。


 <非変化的決定>
 上とは、逆に、大きく変化することを恐れることから、消極的現状 維持の決定をする。 「知らない危険よりは、今ある危険の方がいい…。」リスクを取ら ない日本人の気質の根底には、これがある。日本では、上からの革 命(聖徳太子、織田信長のもたらした近代、明治維新、太平洋戦争 敗戦等は、すべて、上部組織による変化である。)しかないという のも、否定できない。


 <推論的決定> 
論理的に考えようとする人間は、推論するわけだが、今度は、決定 対象が、常に全般として、要求を満たすわけではない。(つまり、 論理的帰結と現実の齟齬が常に生じる。) 故に、この場合、自身で優先順位と、優先項目で扱われる「数点の 事項」での重要度(政策の具体策)を数値的判断?(あるいは、直 感で)として、包括し直す必要が出てくる。


 いわば、<完全>なものなど無いのだから、自分の中で、何が重要 なのかを知らなければ、<選択決定>はできないのである。 自分を知ること。それ以外に判断の基準などない。

自分の分析

人間はほとんどの人が自分は正しいと思って生きている生き物らしい。

それはそれで良いのだが、では自分が正しいかどうかのチェックはどうなっているのだろうか?
チェックすることなく正しいと思っているのだろうか?正しいかどうかは、自分の経験の中からしか生まれてこず、なおかつ自分の行動を客観的に照らし合わせて初めて解るものだと思う。
自分を客観的に分析してますか?自分の良いところ悪いところを理由を付けて客観的に説明できますか?確かに難しいことではあるし大変なことである。しかし、やるとやらないではその人間の生き方が月とすっぽんほど変わってくる。分析しない人にはそんなことも解らないだろうが……

そういう人って常に変に満足し、ちょっとしたイレギュラーに腹を立てる余裕のなさを感じる。常に客観的に自分をチェックしていきたい

2012年5月15日火曜日

「学ぶ」とは?

先日、東京表参道でTOCセミナーを受講してきた。その時の収穫をいくつかに分けて書いてみようと思う。

  まず、TOCとは、イスラエルの故エリヤフ ゴールドラット博士が提唱された制約理論と呼ばれるものである。 詳細は、hpで検索して欲しい。
  弊社が取り組んでいるCCPM(クリティカル チェーン プログラム マネジメント)もこの制約理論に乗っ取った、工程管理の手法である。 こちらも、hpで検索して見てください。 

さて、セミナーのお話。講師は、岸良裕司氏 ゴールドラット研究所の日本代表研究員である。
受講生は、ほぼ一般の方々のような感じであり、内容的にも初級というような感じであった。
その中で、自分にいつも肝に命じ、実践をし、人にも言い続けていることが話に出た。
  それは、「学ぶ」ということである。 皆さんにとって「学ぶ」とは、どういう状態をいうのだろうか?多分、ほとんどの人たちは、本や、新聞、デジタルメデイアなどから知識を得ること。子供や学生たちにとっては、学問を身につけること。人生の生き方を身につけること。などを「学ぶ」と言っている。
 確かにそれは間違いではない。

ただし、「学ぶ=知識を得る」という意味では間違いではないであろうが、「学ぶ=身につける」という見方をすると少々違ってくる。学ぶという行為をしたことによって、それは本当に見についたのかということである。
実は残念ながらほとんどの人達は、身にはなっていない。

それを証明する簡単な方法がある。

 その方法とは、学んだことを行動に起こして見て欲しい。たぶん、行動に起こせる人はほとんどいてないのではないだろうか?学べたけどのように行動したらいいかわからないというのが本音であろう。

 次に他人に教えてみるという行為である。これもできる人がいないのだ。実は、自分で行動できないのだから人に教えることなどできるはずもない。じっと自分の胸に手を当てて考えて欲しい。ビジネス書を読んで、その内容をどれだけ実践できているか?その内容をどれだけ他人に説明できたか?学問でも一緒である。自分が理解したとしている内容でも、試験になると解けなかった記憶はないですか?人に説明しようとして、あれ?ってなったことないですか?思い当たる人は多いはずである。それは単に、学んだ後、実践をしてないために、充分に理解ができていないのだ。
 学んだということで満足してはいけないのだ。学び、自分が良いと思ったことは100%実践をする。そして、それがどれだけ理解できているかは、人に説明してみれば良い。そうすれば簡単に自分の理解度(いかに身についているか)がわかるのだ。今回のセミナーでは、もう一つ上を教えてくれた。

それは、「”人が人に教えることができるように”教える」ということである。これは普通の理解ではなかなか難しい。しかしそこまでできれば、完全に身につけたということになる。 学ぶ。👉行動しながら学ぶ👉人に教える👉人が教えることができるように教える。

 このように「学ぶ」という行為は、最後までいかなければ、完全に自分の身についたと言えないのだ。

2012年5月11日金曜日

高校新卒者採用に思う

今年も4月に新卒採用の新入社員が入ってきた。と、同時に、来年度の新卒採用に向けた動きが活発化する。早くも担当者はそれぞれの学校に出向き接触を持ちだした。学生たちにとっては、ほとんどの人達が人生の大きな分岐点を迎える。現在は、まるで当たり前のように転職をする人もいるので、大きな分岐点でないのかもしれないが、学生から社会人という意味ではやはり大きな分岐点であろう。それだけ大きな出来事であるのだが、高校の就職担当者に疑問を感じることがある。当然これは就職担当者全員に当てはまることではないということを先に断っておく。何に疑問を感じるかというと、就職斡旋の基本的な考え方に対してである。ここ数年、連続して高校から新卒者を少数ではあるが採用してきた。が、定着しないのである。早ければ数ヶ月で辞めてしまう。社風が今の時代に合わないのか?新入社員教育が上手くないのか?先輩後輩の人間関係の問題なのか?いろんなことを考えて見た。もしそこに原因があるなら高卒以外の社員もやめていって当たり前である。そこで、やめていく高校新卒者に理由を聞いて見た。何と「自分がやりたいのはこんな仕事ではなかった」と言うのだ。大会社で、配属先が自分の思っていたところではなかったと言うのであればわかる。しかし弊社のような会社で、技術者として採用すれば仕事は現場管理でしかない。求人票にもきっちりと記入している。面接でも内容はきっちりと説明しているつもりだ。なのに・・・である。昔に比べ、最近では成績の良い学生を送り込んでくれていることは確かである。それはそれで嬉しいことであるが、仕事の内容も理解することなく、応募してくる。今の若者の風潮なのかとも考えたが、理由を聞くに連れ、原因は違うところにあることがわかった。何と就職担当者が説明していないのだ。また、学生たちに何がしたいのか?何になりたいのか?という聞き取りもろくにしていないようである。「君の成績はこうだから中村建設を受けなさい。」という安直な指導らしい。現場管理とは何かもわからず、うちの会社はどのような仕事をしてるかもわからないまま送り込んでくる。これでは定着するはずがない。面接で確認をしても、面接指導を受けてきているので、自分の意思ではなく面接をそつなくこなしてしまうのだ。何とも言いようのない腹立たしさを感じる。就職さえさせてしまえば良いのか?本人の意志は関係ないのか?引き受ける会社側からすれば、経営計画にのっとって採用人数を決めているのだ。こんなことであれば計画もあったものではない。もっと可哀想なのは本人達だ。それだけ大きな問題であるということを就職担当者は理解して欲しい。最後にもう一度断っておくが、就職担当者全員ではないと申し上げる

2012年5月9日水曜日

バランス

いつも普通に使ってる言葉であるが、考えてみるとものすごく繊細な言葉である。「バランスがとれている」と「バランスが崩れる」では、大きな違いがある。これは五分五分の可能性ではない。「バランスがとれる」のはほんの一点を指し、それ以外はすべてバランスが崩れていると言うことになる。だからといって、崩れていて良いと言うことはほとんど無い。身体にしても一つどこかおかしくなると、他にも影響は出てくる。おなかが痛いと痛いだけではなく、憂鬱になる。頭痛が起これば肩こりを起こす人も居る。というように、一つが崩れれば、他にも大きな影響が出てくる。精神的には、わかりにくいかもしれないがもっと大きな影響を及ぼすのだろう。連れ合いを無くした男性は元気をなくし、女性は元気になるこれもバランスの崩れなのだろう。女性の元気になるのは良くないことではないが・・・
では、総てにおいてバランスがとれていると言うことは良いことなのだろうか?バランスがとれる=安定 である。どうもこれには反論したくなる。安定では成長はないと考える自分からすると、バランスが崩れている方が良いのか?なんか変だ!頭がまとまらない。終わり

2012年5月7日月曜日

奈良の経済界に思う

今日はこれから、二年ぶりに会うとある奈良の運送会社の社長さんと某銀行の支店長とご一緒する。あえて名前は避けるが、この社長、実は業界では日本の最先端を走っている社長である。当然のことであるが、建設業と同様、非常に厳しい運送業界にあって会社を引き継がれた後、風雲児のごとく会社を変革し、今では、日本の運送業界のとある分野の先頭を走っておられる。私自身が参加している大学の研究会でお会いしたのだが、会社の取り組方や、本人の経営理念ををお聞きして、感銘を受けた。奈良にもまだまだたくさん彼のように頑張っておられる若手経営者がたくさんいる。残念なのは、奈良ではこの社長をはじめ、大活躍の経営者の話を聞いたことがない。このような方の名前を聞くのは、ほぼ間違いなく、県外にいるときである。県外では有名なのに奈良ではなぜ話題にならないのか?他の地域では絶対に見られない奈良特有の文化なのか?奈良の人たちが知らないのが原因だ。本人のPRの仕方もあるかもしれないが、奈良の経済界のあり方の問題でもあると思う。昔から、奈良は日本の経済界に対して非常の多くの人物を輩出し、知られては居ないが多くの大企業も創出してきた地域である。大和ハウス、積水ハウスグループなどは現時点の最たるものである。当然地域性や、経済圏の問題もあるが、会社が大きくなるとほとんどの会社が県外に出て行ってしまう。数年前の森精機もそうであった。会社が大きくなる以上、企業として奈良を離れていくというのはある意味致し方ないことかもしれないが、奈良の経済界が、その彼らを奈良の中に巻き込もうという行動は過去からも見られない。大きな会社の支店長クラスとつきあいをしていてもそれはおつきあいを頂いているだけで奈良の経済界に取り込んだということにはならない。彼のような人材をしっかり奈良の経済界のトップとして育て上げなければ奈良の経済に未来はない。もういい加減、貢献度と横並びのおつきあいの経済界は辞めようよ。また次回も、モノレールから羽田空港の国際線トラックターミナルに彼の会社のトラックがずらりと並んでいるのを見るのが楽しみでしようがない。

2012年5月2日水曜日

会社で飲むもの

大概がほうじ茶かコーヒーである。特にほうじ茶が多い。コーヒーも飲むのだがコーヒーは苦手だ。
顧客訪問などで午前中にコーヒーが2杯出てしまうと、昼からの体調はぐったりになってしまう。昼ご飯もおいしくない。だからといって、たまにコーヒーが飲みたくなる事がある。何がダメなんだろうか?カフェインはお茶にも入ってると思うし・・・不思議だ。でもコーヒー駄目な人って多いですよね。そんな人たちってどんな理由で駄目なんだろうか?自分が駄目なだけに余計に知りたい。そんな人たちって、紅茶ですか?お茶ですか?水ですか?合間に何を飲んでるんだろう?考え出したらキリがないや。ちなみに、自宅では、お茶もコーヒーも飲みません。ほとんど水です。考えたら俺って飲み物のレパートリー少ないわ。ほうじ茶をすすりながらふと思ったことです。

2012年4月23日月曜日

混沌の時代

以下は奈良新聞の依頼を受け2002年元旦に奈良新聞に掲載された文章の抜粋です。ご一読を・・・
国は今、21世紀の日本の姿を確立するために地方分権や構造改革に着手している。その中でも、私たちに住民に影響の大きい地方分権は、市町村の広域合併に代表されるように、中央集権、行政主導からのトップダウンではなく、地域住民からのボトムアップで推進されようとしている。20世紀の社会は個人の専門分野を重視し、その集合体が画一的な社会を構成し、それが日本のパワーにつながっていた。しかし、地域住民からのボトムアップが21世紀の社会を構築するならば、今までのような専門分野重視の考え方では それは無理である。21世紀の日本社会は、ボトムアップによる地域の個性があふれる社会の構築を行うという方向に進もうとしている。そのためには住民一人 ひとりが、アンテナを張り巡らし人間としての資質を高め、あらゆることの判断と行動がもとめられる。過去のように自分の専門以外は他人任せではいけない。 個人がグローバルな視点で自分の住むまちについて考え、その考えの基にまちに役立つ行動を起こすことこそ、これからの私たちの役目であり21世紀の日本のあり方であると考える。
「自分が何者なのか、自分はどこに行こうとしているのか」皆さんは、自分に問いかけをしたことがあるだろうか?これからの奈良が、日本 が、世界がどこに行くのか、どこに行こうとしているのか、私たちにも確信がもてない時代であるからこそ、個人が自分の考えと行動に確信を持たなければなら ない時代に来ていると思う。混沌の時代を切り開くのは誰かがしてくれるのではない。私たち一人ひとりがやらなければならないのだ。

教育論


世の中は凶悪犯罪の低年齢化、親の幼児虐待など昔では考えられない犯罪が非常に多い。なぜなのか?社会が多様化しているなかで一概に一言でいう事はできないが、やはり教育に問題がある。ここでいう教育とは学校教育の事ではなく親の子供に対する教育である。
昔、高校の時の先生が生徒に向かってこんな話をされた。僕が通っていた学校は進学校であったためその辺も含めての事であろうが、その子供の人生は小学校二年生で決まるという。そしてその次は中学二年生
その次は高校二年生というのだ。今になって思うと非常に的を得た考えだなぁと思う。中学二年生と高校二年生は取りも直さず来年進学を迎える。その方向性をシッカリ決めなければならないとしという事である。自分は何になりたいのか。自分の人生の目的は何なのか?を明確にして自分の進めき方向をシッカリと自分で決めなければならない年である。ここで大事なのは、親が決めてはならないという事である。顔を突っ込むなという事ではない。中学生くらいでは社会的知識が少ないのが当たり前であるからそのための補助はしなければならない。ただ、親の思う方向に誘導するような知識を与えてはいけない。そんなアホなとお思いかもしれないが、中学高校は一番多感な時期である。そして一日一日、物理的も精神的にも成長を遂げる。下手な誘導は反発を生む。するべき事は、社会的知識の提供とやりたい事を見つける手助けのみである。一番やってはいけないのは、理由もちゃんと説明する事無く、親がその子の進路を決めてしまう事だ。理由があればまだ良いのだが・・・・
もし目的をシッカリ持てば後はそれに突き進む様に見守るのみである。口も手もあまり出す必要はない。目的を持った人間はそこからどんどん強くなる。道徳的に外れない様にだけ見守っていれば良い。外れそうになった時だけ補正してやれば良い。
 さて、これで中学高校は以上で説明できたと思う。では、小学校二年生で決まるという事はどういう事なのか。これは自分で理解したのは、30歳を超えた充分に大人になり自分に子供ができた時くらいである。今はあまりわからないが、当時は
ゆとり教育という言葉からなのか、自由奔放に育てる、叱る事はしない、やりたい様にやらせる。と言った様な事をいう親が大勢を占めていた。僕はそれに変な違和感を感じ、テレビニュースで凶悪犯罪の低年齢化を見ていたのだ。この原因って、社会情勢だけなのか?と疑問を抱き、結論は親の教育にあると考える様になった。

子供は生まれた時には白紙の状態で生まれて来る。これはどの様な家庭に生まれたとしても平等に与えられている。誰一人として知識を持って生まれて来る子供はいないのである。その真っ白な子供に日本人として、日本の文化のなかで生きて行く知識をつけるのは間違いなく子供達自信であるが、そのあふれる情報の良し悪しすらわからないのも白紙の子供達である。その様な子供達を自由奔放に伸び伸びという言葉の元、良し悪しを教える事無く育てればどうなるか?答えは歴然!大人になっても物事の判断が付かない大人がそこに一人出来上がってしまうわけだ。結論を申し上げると、子供は物心がつく前まではシッカリとしつけなければならない。赤ちゃんとは白紙で生まれて来た時は動物と同じである。それを人間に仕上げるのは、産まれたと同時に人間としてのしつけが始まるからである。時には叱る事も大事である。そしてシッカリとしつけられた子供は、物心がついて自分で行動し出しても常識を外す事はない(しつける親が常識を知ってるという前提ですけど)。勝手に親のいう事を聞ける子になっている。
逆に自由奔放に育てた子供は、常識、道徳がわからないため人を思いやる事ができず非常識な行動で人に迷惑をかけてしまう。凶悪犯罪の低年齢化はこうやって引き起こされるのだ。そして親は言う「うちの子に限って」と・・・自由奔放という言葉の育児放棄の結末である。
そのしつけの上限が小学校二年生という事なんだ。その時の子供の行動でその子供の人生は決まってしまう。あっ、子供の行動とは、家族以外に対する行動ですからね。どの様に育てられても小学校二年生くらいまでは家族に対しては甘えますから...親に対する判断は全く無意味です。
できてるかどうかの答えは、それから以降自分の子供が答えです。
自分の人生と一緒で、一人の人間(こども)に対する教育はやり直しが聞かないものだからシッカリと責任を持って教育しましょ。だからと言ってびびってはダメ!
できてる親は結果として後ものすごく楽だから!子供はいい意味で親のてからこぼれる事は無く、自分の人生をしっかり見つめ目的をもって生きて行くよ。
自由奔放は物心がつき多感になってから!それまではしっかりとしつけ、しっかりと叱る事が大事。

叱る事と怒る事は全く別!
「叱る」は相手を思い相手の行動を社会常識に合わせる様に促す行為
「怒る」は単なる自分の感情の押し付け
全く違うでしょ。

余談ですが、味覚も小学2年生で確立されるらしいすよ

やり直しのきく人生?

ジョギング中「やり直しのきく社会をめざす」と言う内容が書かれた某政党のポスターを見た。人生ってやり直しきくんですか?僕は絶対にきかないと思う。だからこそ自分の行動にしっかりと責任と覚悟を持ち、今の時間を大切に生きなければならない。やり直せるなんてまやかしでしかない。リセットはゲームだけのも。一度経験してしまうと、未経験の自分に戻ることはできないんだから・・・やり直しなんてあり得ない。子供に教えるのは、やり直しではなく覚悟と責任と今と言う時間の大切さだ!!

神とは?

数年前から、一日参りを辞めた。いつも、一日の早朝、伏見稲荷の末広さん、末光さん、金光さんと、三つの神さんをお参りしていた。しかしとあるきっかけから、会社からも神棚を無くし、そのタイミングで一日参りを辞めた。物心がついたとき、もっと古くは、祖父の代からずーっと続けてきた中村家のしきたりであった。祖父は、奈良から自転車で通っていたと聞いた。そんなしきたりを断ち切った。相当の覚悟はあった。
。決して、神仏信仰でなくなったわけではない。初詣でもするし、伊勢神宮は今でも年数回お参りをする。伏見稲荷もお参りをしている。では、一日参りを辞めたふっとしたきっかけってなんなのか?「神頼みってなに?」と思ったことからである。結局、神さん参りは自分へのお参りで、定めた目的にちゃんと向かっているかどうかの確認であり、 初詣はお願いでは無く、自分への1年間のコミットメントであるのではないか?と気がついたからである。であれば、わざわざ神さんに向かう必要は無い。自分に向かえば良いのである。いわば神さん参りは自分参りである。怖がる必要はない。一度断ち切ってみようということである。それで進むべき方角がより明確になるのではないか?、結果として、より目的が明確になり、冷静な判断ができるようになった。

神様とはそういう存在でいいのだと思う。
決して軽い気持
ちで言ってるのではない。。神は自分の中にいることが言いたいだけである。

2012年4月20日金曜日

人間は地球という生物の遺伝子

遅ればせながら、今になり、漫画「宇宙兄弟」を読んでいる。読者の方はご存じかもしれないが、第3巻で、ぐぐっと来るフレーズが二つあった。その一つを紹介したい。「人間は地球という生物の遺伝子に過ぎない」というものである。そんな見方ができてる人間はどれだけ居てるのであろうか?おおむね人間は無意識のうちに自己中心になりがちである。私たちの星をも、もしかしたら自分が生活をする場所という捕まえ方しかしていないのではないだろうか?宇宙があり、銀河があり、太陽があり、地球があり、その一つの点として私たちは生きている。人類全員が、宇宙というエリアの中で地球という生物が人間などの遺伝子を持って生きているという考えを持って日々送ることができれば、遺伝子である人間が起こしている問題など一発で解決してしまう。そんな些細な事なのだ。

2012年4月19日木曜日

子どもが親を超えるとき

親は何を思って子供に教育を受けさせているのか?進学校であるからだろうか?確かに教育熱心な親が多い・・というかほとんどがそうである。しかし、親はどのような理由で子どもに勉強をさせているのか不思議でしょうがない。明らかに、国公立などの良い大学に入ることを目的においている親が非常に多いと感じる。本当にそれで良いのか?子どもの意志は?確かに中学1,2年生に勉強をする目的を聞くのは無理かもしれないが、高校2,3年生になって社会に出てからの目的を持っていないのはこの時代ある意味問題である。良い大学に入るのは、社会に出てからの自分の目的に対する手段であって、大学に入ることが目的ではない。子どもが社会人として自分を超えて成長する礎を気づいてあげることが、教育であると感じる。
子どもが、親を超える要因は非常にたくさんある。子どもの身長が自分を超えたときなどは、悔しさとうれしさが複雑に交錯する。同じように、社会において子どもが自分を超えたと実感したときが一番複雑であるかもしれないが、喜びでもあり、それが真の子育ての終着点ではないのだろうか?子どもが独立すれば確かに物理的子育ては終了する。子育ての成果が出るときは、子が親を超えたときであり、そこで真の子育てが完了すると感じる。それを感じる事ができない(子どもが親を超えない)親が非常に多すぎるが・・・
少々偏った考え方であるかもしれないが・・・・

人間の観念

人間の行動の善し悪しってどのように決めているのか?人は行動のすべてにおいて「やって良いこととやってはいけないこと」の判断をしている。
では、その判断基準ってどこで学んだのか?少なくとも生まれたての赤ちゃんにはその知識はない。生まれたての子供は、無の状態にある。その無の状態に、生まれた瞬間から、いろいろな情報がインプットされる。その長年にわたって蓄積された情報と、今自分が置かれている立場を考慮して無意識の間に善し悪しの判断をつけているのだ。これが人間の観念である。「これをしたら駄目、あれをしたら怒られる」というのは観念によってもたらされている。観念はある意味、常識を越えない(無理をしない)生活をしていく上において非常に大事なものである。しかし観念には、人間の夢を阻害する要因がある。自分に対する思い込みによる観念である。
たとえば犬が嫌いな人がいるとする。その人はどのような種類の犬を見ても反射的に嫌いだという判断の下で行動を起こす。しかしこれでは、いつまでたっても犬と接触する機会がなく新しい自分を見つけることはできない。中には努力して犬と接触しようとする人がいる。それは間違いではないが、その人の努力であって根本の解決にはつながらない。その人が犬が嫌いになった原因が必ずどこかにあるのである。遠い昔の話でその原因を忘れていたとしても必ず原因はある。その原因を見つけ、自分でそれを理解したとき犬嫌いを解決する糸口を見つけたことにある。その原因を見つけてこそ犬が嫌いだという思い込みからの脱却であり観念を打ち破ることにつながる。
少々例えがおかしかったかもしれないが、「してはいけない」という理由を自分でとことんまで問い詰めてみることが非常に大事である。その行き着くところが真実であり、その真実を見つめて、善し悪しを判断すればいいのである。そこに出てくる答えによっては、「してはいけないこと」ではなくなる可能性が充分ある。
人は観念を自ら打ち破ることができれば、新しい道が見え、その道が広がり、大きな野望が生まれる。これこそ人間が知らぬ間に忘れてしまった自分の夢への再挑戦である。「現状を打破して当たらし道を切り開く」という言葉もこれと同じだ。自分の周りに分厚く取り巻いている観念のバリアをいち早く打ち破ることこそ夢を現実のものとする近道である。
タダ怖いのは、先でも述べたように、正しい善し悪しの判断も観念が担っているため、観念を破ることによって暴走してしまう恐れがある。だからといって恐れてはいけない、万が一暴走してもきちっと周りの人の意見を聞く耳を持ち合わせていれば脱線はしない。他人が暴走を必ず教えてくれる。
観念を正しくぶち破った人間の行動は、非常に大胆であり、かつ繊細であり、目標に向かってぶれることはない。本来の人間の姿はそこにあるのではないかと思う。

大手ゼネコンと地元ゼネコンの違い

何かにつけて、我々建設業は、大手だから・・・・とか、地元だから・・・・というような会話をよく耳にする。特に地方に行けば多いように感じる。実際、自分も、何かにつけて、比較してきた。高度経済成長から、バブル崩壊前までは、何でもかんでも、大手のやっていることは正しいと思いマネをしてきた。バブル崩壊後、現在に至ってもその考え方は一部の企業を除いて変わっているとは思えない。しかし本当にこれで正しいのだろうか?なぜマネをするのか?自分で考える能力がないから?ひとりで新しいことに取り組む自信がないから?たぶん建設業だけではないのだろうが、この傾向は建設業に非常に強いように思う。今現在、建設業が置かれている立場は非常に厳しい。にもかかわらず未だに自分たちの独自性を出さずにじっとしている。大手がバタバタ潰れて、これではだめだと解っていても策を出せずにいるのが現状である。大手ゼネコンは生き残りをかけ必死で改革を進めている。地元ゼネコンは、今その結果待ちなのだろうか?その結果を見てからまたマネをするつもりか?もうそれでは生き残れるはずもないのに・・・
では、大手ゼネコンと地元ゼネンコんってなにが違うんだ?資本力、従業員数、営業先、開発力、開発力や人間力からくる技術力・・・数え上げればきりがない。それほど大手と地元では違うのである。見た目は・・・・・・・
よく考えないといけないのは、いくら大きな企業であろうが、小零細企業であろうが、やっていることは同じであるということだ。営業先や、建てる建物の大きさは違えど、営業から、受注、引き渡しのプロセスはいう全く何も代わりはしない。にもかかわらず、大手をしたから見上げてしまっている。十分平行でいいのに・・・というか平行に見ないと何も生まれてこないのに・・・先に書いたように、大手のマネをするのであればそれでいい。しかし新しいものを作り出そうとすれば、下から見上げている姿勢では何も生まれない。
もっと極端に述べると、実は、改革を起こすのは大手ではなく、我々小零細企業のほうが有利であるのだ。
おおくの中堅ゼネコンが、会社をつぶした。なぜなのか?残っている会社と何が違うかったのか?確かに資本力や営業力の違いはあるだろう。しかし、それ以上に、時代を読み、問題意識を持ち、改革をしようとする判断と行動力の差ではないのか?もしそうであるなら間違いなく我々、小零細企業の方が有利なのだ。組織が小さい分、フットワーク軽く行動を起こすことができる。大手は組織が多きい分、フットワークが軽いとはいえない。時代の流れと、改革の流れのどちらが勝つかで、生きるか死ぬかが決まるのだ。
弊社は今、生き残りをかけいろんな取り組みをしている。そんな取り組みを大手ハウスメーカーなどか見学にくる。また別の取り組みでは、スーパーゼネコンがついこの前から全社に展開しだした取り組みと全く同じである。こんな小さな会社でも十分にできるんだ。それなりの努力は当然必要であるが、やる気になり覚悟を決めれば、大きい小さいなんて関係ない。堂々と渡り合えるという自信を持って何事にも取り組もう。

宇宙のでかさ、海の深さ 人間の小ささ

小さい頃から、宇宙に興味を持っていた。宇宙の端とは?端がないとはどういう事なのか?ビッグバンはどこで起こった?無とは何なのか?この宇宙とは別にまた別の宇宙は存在するのか?夜空を眺めながら、そんなことばかりを考えていた。現在の人間では説明できない事柄が宇宙には多数存在する。解明されている内容はともかく、宇宙は解明されていないことだらけである。だからこそ、人間の想像を豊かかにさせる。答えがそこにないのだからこそ人間がどのように想像しようが勝手なのだ。だからこそ楽しい。そんな宇宙にいずれいってみたいと考えていたし今もその思いは変わらない。今でこその日本人が宇宙に行く時代になってきたが、まだまだ我々がそこに足を踏み入れることは不可能であるし、私が望んでいるのはそんなものではない。そこから派生したのがパイロットへの憧れである。これも現実のものはならなかった。(視力の問題)。しかし、10数年前から宇宙と同じくらい神秘的な世界を見つけた。それが、海である。我々の地球にありながら人間に知られず解明されていないことはたくさんあるが、その中でも、海は神秘の宝庫である。分野は違うかもしれないが、人間が生活をしていくことができないということも含め宇宙と同じ未知の世界であるといってもよい。10数年前からダイビングを始めた。そのときにそれを実感した。たった20mの水深の世界であっても、それは宇宙と同じ、人間が生きていけない神秘の世界なのである。ダイビングをしていると、水槽を眺めるのとは違う魚たちの生態系がみられる。魚たちも我々を人間とは認識していない。当たり前といえば当たり前なのだが、泡をはく大きな生き物という存在なのだろうか?あまり逃げたりもしない。こんな浅瀬でも感動を覚えるくらい僕たちの知らない世界がある。日本の近くでも水深8,000mを超える場所(日本海溝)などがある。当然にそんな深度にダイビングで潜っていくことはできないが、。もうそうなると想像を絶する。光が全く届くことのない神秘のエリアである。全く宇宙に似ている。このように考えると自分たちの星のことすらほとんど知らずに生活をしている我々人間は本当にちっぽけな存在である。そんなことを認識するだけでも、価値観は変わり人間を大きくすることにつながるように気がする。あっ、間違えないで!知るというのは学問的に勉強をするということではないですからね・・・

ボランティア

変に無料がもてはやされ、世間で当たり前になってきている。でもね、一部では大きな問題にもなってるところがある。震災復旧のボランティアでもそう。ボランティアという言葉は、聞こえが良いが、よほど双方に理解し合える意識があるか、しっかりとしたルールがない限り問題は起こるもんなんです。与えて貰う側にだんだんとボランティアが当たり前になり、与える側に過度な要求がなされる。実際、受け入れ体制がまだ旨くできていない状況でボランティアに入り、仕事量があまりなく、「せっかく来てやったのに、仕事がこれだけでは・・・」と不満を漏らす人たち。挙げ句の果てに受け入れが和の行政やボランティアの不備を口にする。これどう思います?もってのほかでしょ。こんな人たちはボランティアという意味が全くわかっていない。これは震災ボランティアに関してだけのことではありません。観光ボランティアに対しても与えて貰う側が当たり前のごとく、案内が下手だの、しゃべりがダメだの評価をしてしまう。与えている側も、無料なんだからと高飛車になっている。総てとは言いませんが、これが実態なんでしょうね。得に日本人はそんな傾向が強いようです。日本人特有の人を思いやる気持ちとボランティアは全く別物ですから・・・一緒にしている人が多すぎると思いますよ。だから、プロが必要なんです。お金を貰う以上、プロ意識を持ってお客を楽しませようと努力しまくる。客側も、お金を払ってるんだから常識の範囲で代価を求めて当たり前。これが民主主義のあり方なんです。個人的には,組織で動くボランティアには、ボランティアという意識ではなく、利益を上げる会社と同じレベルの意識と責任感が必要でそれが無ければしてはいけないと思う。できる範囲で有志が集まってやってるボランティアは自己満足に陥りやすく危険極まりない。総てとは言いませんが、運営されてる皆さん気をつけてくださいよ。

多様化の中の画一化

建設産業は、機械化が遅れていると言われている。他の産業は、ほとんどが機械化され、商品の量産が決まると、ほとんど人の手がかからず完成され、ユーザーに渡る。消耗品などはそれで良いのかもしれないが、建設業が本当にそれを目指してよいのだろうか?現在の社会は効率化という機械化によりどんどん生産者とユーザーの間に人間がいなくなり、人間の多様化が進むのとは逆方向に画一化した商品を押しつけられるようになる。それが当たり前と感じるようになりどんどんメーカー主導の商品提供が進み、多様化してるはずなのに、画一化された生活環境の中で同じような生活を送っている。なんか変でしょ!
建設って、最終最後のオリジナル商品を提供する産業なのかもしれない。それを大切にしていかなければならないと思う。人間が総出でお客様のためにオリジナル商品を作る。最高の集団じゃないですか!営業はそれをコーディネートする役割でしょうね。頑張れ建設業!!
なかなか良いこと書くやん 俺!後で自分でシェアしよう!!

諦めと向上心

強く生きよと母の声

死ねと教えし父の顔

走る時代の歯車ならば

人にかくれて生きるもよし

これは、とある芸能人?(世界的映画監督と言えば誰か解るでしょ!)が昔、バイク事故を起こして、テレビに復帰する前に東京のとあるバーの壁に殴り書きをした詩です。私も良く覚えてますが、そのときはテレビで散々こき下ろされてました。そのときの腐った自分をを表現したものなでしょう。彼の今を想像するとこの言葉は信じられないような感じがします。この詩からは、頑張って生きようとか、見返してやるというような意味は全く感じ取れません。全く後ろ向きでしかありません。ただ、ここまでの絶望感って皆さん自分で体験したことありますか?必ず人間て、落ち込んで人に大変だ大変だと表現しながらでも、どこかに相反する考えをちょっと隠し持っているもんです。でもこの詩からはそんなことをこれっぽっちも感じられません。書かれた字体も完全に投げやりなんです。このあと、この芸能人にどのような変化があったかは解りませんが、これを機に彼は爆発的変化を遂げます。逆に行き着くところまで行ったから彼の現状があるのかもしれません。先が見えない状況でも諦めてはいけない。もし今どん底と思うなら必ず上を向く。タダ上を向かせるのは、今までの自分がやってきた履歴でしかないのだが・・・ 

人間の可能性

人間はアナログな生き物ではあるが、実はデジタル的な判断の集大成で存在している。

どういうこと?

と思われるだろう。

実は人間は一日に数万回の判断をしている。

YesかNoの判断をである。


 わかりやすところから説明してみよう。

朝起きるに際しても、起きるかどうか?の判断し、顔を洗うかどうか?朝ごはんを食べるかどうか?人間の行動を記しただけでもいくつもの行動を判断している。

その行動を細かく分析すると、そこにはYesかNoの判断があるのだ。

それを全て数えると一日に数万回の判断をしていることになるそうだ。

人間は昔から、無限の可能性があると言われている。

積極的な行動を起こせば、そこには想像をすることもできない世界が待っている。

ゆえに何事にも前向きに取り組めと・・・・

しかし選択の集大成が人間の行動であるならば決して無限ではない。

選択した数だけ、人生のゴールがあるということになる。

確かに無限と言っていいぐらいの数ではあるが・・・

人間には無限の可能性があるとはうまく言ったものだ。

 いずれにしても、神経質になる必要はないが、要所要所の判断が、自分の人生を大きく作用し、最終のゴール地点を大きく左右することは間違いない。

人生の重みをシッカリと感じながら毎日を生きよう

一人の力

人の力は対したものだ。

ほんの一部の人間を入れ替えるだけで、劇的に組織が変わる。

じゃあ今まではなぜその組織は動きを見せなかったのか?

理由はいくつもある。

馴れ合い

やる気のなさ

価値観

ちなみに命令は一切変えていない。

にもかかわらず、2、3ヶ月で劇的に変化を起こしている。

改めて組織を組む時の人選の大切さを実感。

会社が動くぞ!